立憲主義とはなにか? 問われる日本の民主主義

 安倍内閣は自民党推薦の学者までもが、「憲法に違反する」という安保法制を実現させようとしています。これまで、自民党政権下でも、憲法の下では集団的自衛権は使えないという政府の解釈が、長い間守られてきました。憲法9条では、「交戦権」が否定されているので、自国防衛はできても、他国の防衛戦争はできません。

 憲法は、権力者をしばるためのものです。国民の基本的人権、生命や財産を守るためにあります。憲法99条では、「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う。」と書いてあり、国民には憲法を守る義務はありません。守られるのは国民なのです。たとえば、権力を持つ人が正しいと考えることだけが認められ、それと違う意見を言う人は逮捕される世の中は困ります。しかし、わずか70年前の日本では、そうだったのです。「その政策はまちがっている」と言っただけで、逮捕、投獄されました。そうならないように、憲法で政治家や公務員をしばっておこうという考えが「立憲主義」です。

 安倍総理は「世界情勢の変化にあわせて憲法解釈を変えるのがむしろ当然で、それをやらない方が無責任だ」と言っています。「立憲主義」の下では、権力者である総理大臣が憲法のしばりを自分で勝手にゆるめることはできません。この発言は「立憲主義」を尊重する国際社会では通用しません。

 「国際的な安全保障情勢の変化により集団的自衛権の行使が必要だ」と、安倍総理が考えるなら、正々堂々と憲法9条改正を提案すべきでした。さすがに解釈の変更には後ろめたさがあって、「限定的」な変更を提案した結果、説明が矛盾し、過去との整合性もなく、さっぱり意味がわかりません。防衛大臣の答弁も二転三転しています。世論調査では、国民の8割が説明不足だと考えています。

 しかも、安倍総理応援団の勉強会で「マスコミをこらしめるためには広告料収入をなくせばいい。経団連に働きかけてほしい」と国会議員が言い出す始末。講師の百田尚樹氏は「沖縄の二つの新聞社はつぶさなあかん」などと、冗談でも言ってはいけないマスコミ批判をしています。しかも、出席した国会議員から、それをたしなめる声は出なかったとのこと。私は同じ国会議員として怒りを覚えるよりも、とても悲しくなりました。

 私は、安全保障政策にはいろんな議論があって良いと思います。憲法改正も含めて、国会で大いに議論すべきです。しかし、権力者が勝手に憲法のしばりをゆるめたり、マスコミを弾圧し、報道の自由を踏みにじるような、戦争前の「いつか来た道」に流されることには命をかけて戦います。