真田探訪③ 家康・幸村の本陣跡「茶臼山」

前号では大坂冬の陣の際、幸村が陣を構えた真田丸跡に位置する三光神社と、今も残る「真田の抜け穴」について取り上げた。家康は真田丸から南西約3㌔に位置する「茶臼山」に陣を構え豊臣勢へ攻め入った。今週は茶臼山を紹介したい。

茶臼山は天王寺区茶臼山町(天王寺公園内)にある標高26㍍の丘。元は5世紀頃の豪族の墓であるとされ茶臼山古墳といわれる。

三男・秀忠と共に出陣した家康は住吉に、秀忠は平野に本陣を置いた後、大阪城を望む茶臼山で参会し軍議を開き、それに藤堂高虎と本多正信も同席したとされる。その後、秀忠が平野から御勝山へ、家康が住吉から茶臼山に本陣を移動。間もなくして大坂冬の陣が始まった。

豊臣勢に圧倒された徳川勢は兵糧不足も後押しとなり豊臣方との和睦交渉を開始。豊臣方から淀殿を人質として江戸へ行くことを条件に、籠城する浪人への加増を求める和睦案が出されるが家康はそれを拒否。

徳川勢が仕掛けた絶え間ない砲撃(イギリス・オランダから購入した大砲を用いたとされる)で心理的に疲弊した徳川方より、本丸を残し二の丸・三の丸を取り壊し外堀を埋める(真田丸も同時に破壊)ことや豊臣の家臣を人質として出すことを提示。徳川方は豊臣秀頼の身の安全と籠城浪人を不問とすることを約し和睦が成立。大坂冬の陣は収束に至った。

その後、大坂夏の陣が勃発。冬の陣の和睦により真田丸を破壊された幸村は茶臼山に本陣を構え、幸村が最期を迎える戦いが始まった。時を変えて家康、幸村が本陣を構えた茶臼山は「大坂の陣」の歴史の要所となっている。

茶臼山(天王寺公園)へはJR・地下鉄天王寺駅から北へ徒歩約15分。

時を変え、家康、幸村が本陣を構えた「茶臼山」

時を変え、家康、幸村が本陣を構えた「茶臼山」

(次田尚弘/大阪市)