真田探訪⑤ 本多忠朝の墓地「一心寺」
前号から幸村が最期を迎える大坂夏の陣に縁がある名所を取り上げている。幸村が伏兵を構えていた四天王寺から西へ約500㍍、茶臼山(天王寺公園)のすぐ北に位置する地域は、大坂夏の陣における最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」の激戦地。
今週は、この戦場で討ち死にした徳川家の家臣である本多忠朝(ほんだただとも)と、忠朝の墓がある一心寺を紹介したい。
慶長20年(1615)5月7日未明、大阪城を出立した豊臣勢が現在の阿倍野区から平野区に迎撃の体制を敷き、徳川勢は夜明けと同時に大阪城へ向け進軍。大坂夏の陣最後の決戦が始まった。
茶臼山の本陣に幸村率いる真田一族、茶臼山の前方に真田の与力衆が、徳川勢は進軍の一番手に本多忠朝を大将とした兵を構えた。
本多忠朝は冬の陣でも活躍したが酒を飲んで不覚をとり、敵の猛攻に遭い敗走。それを家康にとがめられた忠朝は、汚名を返上しようと先鋒となって徳川勢へ突入することを決意した。
忠朝は毛利軍へ正面から突入し奮戦するも戦死。死に際に「戒めるべきは酒なり(酒のために身を誤る者を救おう)」と言い残したとされる。その後、家康と結び付きが強く冬の陣では家康の本陣が置かれていた一心寺に墓が建てられ、現在も「酒封じの神」として参詣者にあがめられている。
一心寺は宗派を問わず参詣や納骨を受け入れ、集められた遺骨は10年分をひとまとめにし阿弥陀如来像を造立する「お骨佛の寺」として知られる。現在は納骨堂に7体のお骨佛が祭られ、来年、平成19年から28年までの納骨で造立されるお骨佛が開眼されるという。
一心寺へはJR・地下鉄天王寺駅から北へ徒歩約15分。阪堺・地下鉄恵美須町駅から東へ徒歩約10分。
(次田尚弘/大阪市)