家康紀行⑯「犀が崖古戦場」での夜襲
前号では浜松市で450年にわたり語り継がれる「布橋」の物語を取り上げた。今週は物語の起源となる「犀が崖(さいががけ)古戦場」を紹介したい。
三方ヶ原の合戦で大敗した徳川軍がその夜、野営していた武田軍を奇襲攻撃し、崖にかけた布を橋と錯覚させ多数の死者を出したことは前号で説明の通り。
「犀が崖」は三方ヶ原台地が水の浸食により陥没し、東西約2㌔の区間に急な崖が連続した幅約30㍍の谷間で、合戦当時は深さが40㍍に及んでいたという。
犀が崖資料館で説明員を務める男性によると、家康が浜松城に逃げ帰った夜、浜松城の近くにある「普済寺(ふさいじ)」の了承を得て、城が炎上したかに見せかけるため建物に火を放ち、それに武田の軍勢の興味を引かせ、城内に残る鉄砲をかき集めたという。
家康に仕え江戸幕府の創業に功績を立てた徳川十六神将の一人、大久保忠世(おおくぼただよ)や、三河(岡崎城)時代に奉行として活躍した三河三奉行の一人、天野康景(あまのやすかげ)らが中心となり、野営する武田の陣営の背後に回り込み、鉄砲で夜襲をかけた。この出来事に対し武田信玄は「勝ちても恐ろしい敵かな」と、20歳もの歳が離れた家康を評価したという。火を放った「普済寺」には家康が客殿を寄進するなどその後手厚い保護が行われたという。
一連の三方ヶ原の合戦が収束した翌々年ごろから、この地域で奇妙な出来事が起きる。夜更けになると崖の底から人や馬のうめき声が聞こえるようになり、イナゴの大量発生により農作物に甚大な被害を及ぼし、人々は犀が崖の戦死者のたたりであると恐れたという。それを聞いた家康は霊を鎮める奇策に出る。
(次田尚弘/浜松市)