和歌山大空襲で犠牲の兵隊 供養へ情報求む
和歌山市北新の野村晴一さん(91)は7月10日午前9時から、和歌山市向の歩道橋付近で、和歌山大空襲で犠牲になった名前も分からない、ある一人の若い日本兵の男性をしのぶ法要を行う。野村さんは、この若い兵隊の身元や遺族についての情報を求めており、提供への協力を呼び掛けている。
太平洋戦争末期の昭和20年7月9日夜から翌日にかけて、和歌山市を大空襲が襲った。中心市街地をはじめ、当時19歳の野村さんが護阪部隊として任務に就いていた貴志や松江地区周辺などにも、米軍によって無数の焼夷弾が落とされた。
戦火が激しくなる中、野村さんらは、天皇から授けられた神聖なものとして扱われていた軍旗を、兵舎として寝泊まりしていた貴志小学校から近くの鉄道のトンネルまで運んだ。軍旗衛兵となった十数人が隊列を組み、現在の歩道橋付近に差し掛かったところで、焼夷弾が若い兵隊を直撃した。
野村さんの記憶では、護阪部隊には1500人ほどが所属していたが、犠牲になったのは、この若い兵隊ただ一人だった。その日のうちに、この兵隊の部隊葬が行われ、軍旗衛兵の隊列はその後、軍旗の避難のためトンネルに向けて再び出発したが、野村さんは、遺体を見守る屍(しかばね)衛兵として未明まで付き添った。
大空襲により一帯は火の海となり、火が消えた後は焼け野原が広がった。戦後72年が近づき、当時のまち並みの面影は薄くなっているが、野村さんは近くを通るたびに、悲惨な出来事を思い出す。
野村さんは「数時間だけ共にした仲間だったが、今でも成仏できたかが気に掛かっている。今回の法要で、遺族の方と一緒に彼の御霊を再び供養したい」と話している。
情報提供や問い合わせは野村さん(℡090・3466・1567)まで。