家康紀行(55)牧之原茶を確立、徳川武士の挑戦

前号では、蒸気機関車を観光資源に地域の魅力を再興し誘客に励むローカル線を取り上げた。この一帯は、国内最大級のお茶の産地として知られる「牧之原(まきのはら)台地」。今週は、牧之原台地の発展に貢献した武士の物語を紹介したい。
牧之原台地でお茶の栽培が始まったのは明治初期。それまでは農作物の栽培には見向きもされない土地であったという。慶応3年(1867)、15代将軍の徳川慶喜は大政奉還により駿府に隠居。慶喜の警護を務めていた武士らも共に駿府へと移り住んだが、明治2年(1869)の版籍奉還によりその武士らの職が解かれてしまう。そこで、警護役の長を務めていた中條景昭(ちゅうじょうかげあき)が剣を捨てて鍬をとると宣言し、賛同した約250戸の元幕臣らが牧之原へ移住。開墾を開始した。
荒廃した土地は深刻な水不足で、剣を鍬に持ち替えたばかりの中條氏らは相当の苦労をしたという。その中でも、かつて徳川幕府に仕えた中條氏の統制力や指導力が生かされ、粘り強く開墾を続けたという。
明治4年(1871)には500㌶の造園に成功。明治6年(1873)には初めて少量の茶摘みができるも、一部の開墾者は農地を売却し中條氏の元を後にした。
中條氏にも神奈川県令への誘いが舞い込んだが「一度、山へ上ったからにはどんなことがあっても下りることはない。私はお茶や木の肥やしになるのだ」と茶の栽培を生涯続けたという。その後、深蒸し茶の考案により「牧之原茶」としてのブランドが築かれた。
版籍奉還により職を失い、異分野へ自ら挑戦し、初志貫徹を貫く。自らの代で大成しなくとも、信じて後の世へその種を植え実らせる。中條氏の生き方に感銘を受けた。
(次田尚弘/牧之原市)