返還の願い託す元島民 中学生研修リポート㊥
北海道根室市には元島民が1182人いる。これに2世から4世を加えると6862人となる(数値は3月末現在)。市民のおよそ4人に1人が北方領土にゆかりのある人たちだ。歯舞群島の多楽島に生まれた河田隆志さん(81)もその一人。研修中の中学生のもとを訪れ、ソ連兵による進駐の様子や心境を語った。
1945年7月14日と15日、根室の中心地が米軍の空襲を受けた。辺りは丸焼けになり、当時河田さんが入院していた病院は跡形もなくなった。
その1カ月後、日本は終戦を迎えた。「ソ連軍が侵攻してくる」。多楽島にうわさが飛び交った。捕まれば男はシベリアの捕虜、女は軍の世話役、そして子どもは売り飛ばされる――。身の危険を感じた人々は同市周辺や、親戚の多い富山県を中心に避難を始めた。一部の島民は先祖から受け継いだ土地を守るため島に残る決断を下したが、2年後には強制退去させられた。
河田さんの家族はその一部の島民にあたる。同年9月4日、海上に大きな黒い船が見えた。船は島の砂浜に乗り上げ、前方から4、5人のソ連兵が銃を手に降りてきた。緊急避難した島民の家や納屋に土足で立ち入り、腕時計や生活物資をあさった。刃向かう島民がいないと判断すると、30人前後の兵隊が2列になって中心地へと進行。日本兵は武器を取り上げられ、船で運ばれた。
その光景を見た河田さんはまだ小学3年生。「言いなりにならなければならない」と悟った。だが軍の規律は厳しく、兵隊が島民に危害を加えることはなかった。銃を持って監視する兵隊に何度も菓子をねだったこともあった。母は家に持ち込まれてくる衣類を洗うよう指示された。「言葉は分からなかったが、危害はなかった」と振り返る。
2カ月がたった頃、軍の許可をもらい、兄と2人で島を出た。学業のためだった。両親や他のきょうだいと別れ、緊急避難していた叔父の迎えの船に乗り込んだ。
あれから73年、いまだ島には戻っていない。時間の経過とともに元島民の数は減り、「返還運動を声高らかに叫んでいるのはほんの一握りになった」と話す。「返還の兆しは一切ない。私たちは年齢的に長くもない。これからは皆さんが声を大にして、領土返還を要求してもらいたい」。領土問題の解決へ、悲痛な思いを中学生に託した。
(㊦に続く)