「蛸地蔵」岸和田城防衛の伝説
前号から「世界に一番近い城下町」としてPRが盛んな、岸和田城の歴史を取り上げている。
岸和田城に大きな転機が訪れたのは、秀吉による紀州征伐の頃。秀吉の命を受け、石山合戦や山崎の戦いで武功を立てた中村一氏(なかむら・かずうじ)が岸和田城主となり3万石を拝領。当時、秀吉に服属せず、根来衆や雑賀衆、粉河衆などの紀州勢に支配されていた和泉国を傘下に、大坂城の防衛と紀州攻めに備える役割を与えられた。
天正12年(1584)正月、紀州から根来衆や雑賀衆、粉河衆などで構成された連合軍による岸和田城への襲撃が開始。同年3月22日からは、小牧・長久手の戦いのため秀吉が大坂を留守にした合間をぬった攻撃を受ける。連合軍3万、中村一氏らの城兵8000と、一氏側は極めて劣勢ながらも岸和田城を守り抜いたという。
城の落城が寸前となった際、蛸に乗った法師が現れ、それに続き蛸の大群が連合軍を退却させたという逸話がある。後日、一氏の夢の中に、蛸に乗った法師が再び現れ、自らが地蔵菩薩の化身であることを告げたことから、戦乱から守るために堀に埋め隠していた地蔵菩薩を掘り出し祭ったという。その菩薩が「蛸地蔵(たこじぞう)」と呼ばれるようになり、城の南に位置する岸和田市南町の「天性寺(てんしょうじ)」で現在も祭られている。
寺の最寄り駅となる南海電鉄の駅名として「蛸地蔵」の名が採用されるなど、地域の人々に親しまれ、受け継がれる存在となっている。
翌年の天正13年(1585)、秀吉が岸和田城に入城。紀州からの連合軍を追討する紀州征伐が始まる。
(次田尚弘/岸和田市)