和歌祭奉納芸能など4件 和市文化財に指定

和歌山市は、市文化財保護審議会の答申を受け、無形民俗の「和歌祭の奉納芸能」など4件を新たに市文化財に指定した。その他の3件は、美術工芸品の「和歌山城天守閣銅鯱(どうしゃち)」と「多宝小塔」、歴史資料としての「弁才天十五童子像附(つけたり)扁額(へんがく)」。市の文化財指定は計79件になった。【画像は和歌祭の奉納芸能以外は市提供】

和歌祭は江戸幕府を開いた徳川家康を東照大権現として祭る和歌浦西の紀州東照宮の例祭。紀州藩初代藩主頼宣(よりのぶ)が1622年に始めた。

渡御(とぎょ)行列は、神輿(みこし)による神幸行列「渡り物」と、さまざまな装束で芸能を奉納する「練り物」行列で構成される。縮小や再興を経て、明治に長刀振(なぎなたふり)▽母衣(ほろ)▽連尺▽唐船・御船歌▽雑賀踊▽餅搗(つき)踊▽面掛▽相撲取――の八つが定着した。

町衆ではなく藩主催だったため山車(だし)が発展せずに練り物が中心になったという、他に類を見ない風流(ふりゅう)芸能の大祭として引き継がれている。

今回の無形民俗文化財の指定に、紀州東照宮の西川秀大(ひでひろ)宮司(48)は「400年間続く祭りの中で人々によって伝承された技芸が認定されたことは大変ありがたい」と喜びを語った。


残りの3件の詳細は次の通り。

 

【和歌山城天守閣銅鯱】

和歌山城には、江戸後期の1850年に再建された天守閣の銅鯱が断片を含め複数残る。当時の記録「御天守御普請覚帳」には、設置された櫓(やぐら)や天守の他に製法の変更、特徴などが記され、残存する銅鯱と一致する。当時の城を想起できる数少ない確実な遺物とされる。

市所蔵で一番丁の和歌山城天守閣で展示されている。

 

【多宝小塔】

二層構造の木製宝塔。初層の観音開きの扉には徳川家の葵紋、龍などの彫り物があり、桃山期以降の彫刻技法が取り入れられている。紀州藩第7代藩主宗将(むねのぶ)の生母永隆院を弔うため1763年に造立されたとの奥書もある。この時期の大型の多宝小塔としては優れており、藩主と紀三井寺の関わりがうかがえる作例としても極めて重要とされる。

紀三井寺(護国院)が所蔵し、本堂に安置されている。

 

【弁才天十五童子像附扁額】

頭上に宇賀神を頂き、剣と宝珠を持つ弁才天が中央にあり、その周囲に毘沙門天や大黒天、15体の童子像を立体的に配した像。1751年に和歌山の仏師伊藤光貞が修理した記録も残る。付属の扁額は金字で「大辯天」と記された鳥居型。裏の銅板には78年に伽陀寺弁天祠(かだでらべんてんし)の額として迎之坊本義(むかえのぼうほんぎ)が制作し、題字は聖護院門跡の揮毫(きごう)であることが刻まれている。葛城修験の一宿(いちのしゅく)で廃絶した伽陀寺の伝来であることが確実な資料とされる。

加太の常行寺所蔵で原則非公開。

 

(左から)和歌祭の奉納芸能(雑賀踊)、和歌山城天守閣銅鯱(二の門続櫓、高さ85㌢)、多宝小塔(同192・7㌢)、弁才天十五童子像(同76.2㌢)