和歌山大空襲から77年 語り継ぐ証言②
和歌山市が米軍による爆撃を受けた77年前の「和歌山大空襲」時、同市湊通丁南の伊藤喜三郎さん(86)は小学3年生。同市十三番丁で電気屋を営んでいた父と近くの川へ逃げ込み、戦火で湯のように温かくなった水に浸かったまま夜を明かし、助かった。「一つ違っていたら死んでいたかもしれない」――。家族の思い出を刻む白黒写真が収められた古いアルバムをめくりながら、忘れ得ぬ記憶を語った。
7月9日の夜、空襲警報が鳴り響いた。母と弟は母の里である奈良へ疎開先を探しに行っており、家には父と2人だった。
土間に作っていた防空壕の中の家財道具や店の商品が燃えないよう、土をかぶせていた父が「先に逃げよ」と言ったので、隣に住むおばさんと一緒に逃げた。
走っている途中で焼夷弾の音に驚いたおばさんは通りすがりの家に入っていき、別れてしまった。ふと学校で習った訓練を思い出して地面に伏せ、両手で目を覆い、親指を伸ばして耳をふさいでみたが、「このままではあかん。逃げないと」と思い、再び走り出した。
しばらくすると父が追い付き、2人で小さな橋を渡る時に北島橋の方を見ると、火の海が目に飛び込んできた。家から持ってきた毛布や防空頭巾を引きずりながら、首元には食料をつり下げたまま、無我夢中で川に入った。
積み上げられた死体
水にぬれて重くなった毛布や食料は捨て、風呂敷を防空頭巾代わりにかぶった。空から火の粉が落ちてくるたび、風呂敷に穴が開き、川の水で煙を消した。だんだん川が湯のように温かくなってきた。「お風呂みたいなあの感覚は忘れない」。
知らぬ間に寝てしまい、人の声で目を覚ました。明るくなった辺りを見渡すと、渡ってきた橋は落ちていて、川の中には死んだ人が浮いたり、流れたりしていた。
父と2人、川から上がると、和歌山城の砂の丸広場でおにぎりの配給があると聞いた。向かう途中、食品会社の前の道路にあめのようなものが溶けていた。当時は甘いものなどはなく、「こんなにおいしいものがあるのか」と地面で溶けたあめを手で何度もすくってはなめた。
城への道中、「全身真っ黒けで炭のようになった死人を何人も見た」。裸の死人が100人ぐらい山のように積み上げられている所もあり、中には小さな子を背負ったまま死んでいる女性の姿もあった。幸い、逃げる途中で別れてしまったおばさんは爆風でお堀に飛ばされて助かっていた。
犠牲になるのは市民
その後、家族は再会。家は全焼したが、防空壕の中に入れていたものは焼けておらず、父はラジオ修理の仕事を続けられた。まだテレビがなかった当時、多くの人にとってラジオは「宝物」。修理依頼も多く、父は場所を移して電気屋を続け、自らも和歌山工業高校の電気科を卒業して跡を継いだ。
「子どもやったからあんまり悲愴(ひそう)感はなかった」と話す一方、ウクライナ侵攻のニュースなどで流れる飛行機や焼夷弾の音を聞くと、「やはり77年前を思い出す」。「市民が一番犠牲になる戦争はもう二度としたくないし、させたくないけれど、止めようと思ってもなかなか止まらんな」とつぶやき、77年後のこの時代に起きている現実を静かに見つめている。