伊勢路旅(35)三重県松阪市⑥
前号まで複数回にわたり、御城番屋敷と元紀州藩士らの活躍の歴史、松阪の伝統的な文化について取り上げた。他にも松阪には紀州藩にまつわる歴史がある。今週は国学者として名高く紀州藩に仕官していた本居宣長(もとおり・のりなが)の功績を紹介したい。
本居宣長(1730―1801)は現在の松阪市の商家の生まれ。商いよりも書を読むことを好み、母の勧めで医者となり亡くなる72歳まで町医者として生計を立てた。
医者の傍ら、30代半ばから当時は解読ができないとされていた日本最古の歴史書『古事記』を研究し、35年もの歳月をかけ44巻に及ぶ『古事記伝』を書き上げた。天明7年(1787)、当時の紀州藩第9代藩主の徳川治貞(はるさだ)からの依頼で、国学の中心となる思想について著した『玉くしげ』と、経済の立て直しや百姓一揆の解決策など、藩政を改める具体策を著した意見書『秘本玉くしげ』を献上している。
その後、寛政4年(1792)紀州藩に仕官し、松阪に生活の基盤を置きながら何度も和歌山城を訪れ講義を行うなど、紀州藩政に多大な貢献をした。
国学者としても活躍を続け、後継者への教育に尽力し亡くなる際には500人近くの門人(弟子)がいたとされる。鈴を収集する趣味があり自宅に「鈴屋」という屋号をつけるほど。その自宅は現存し「本居宣長旧宅(鈴屋)」として松阪城内に移築され公開されている(国の特別史跡)。
本居宣長の功績は隣接する記念館で紹介されている。リニューアル工事のため来年2月末まで一時休館中(予定)だが、ぜひ訪れてみてほしい。
松阪の街の一員として人々の暮らしと密に関わることで得られる知見と、そこから生まれる国学者としての藩政改善の提言は、現代にも通ずるものがある。
(次田尚弘/松阪市)