真田探訪① 真田丸跡を訪ねて
前号では、和歌山城と姉妹城提携している大阪城の歴史にふれた。城の南方に築かれた真田丸を中心に、今週からシリーズで大阪城周辺の真田幸村ゆかりの地を紹介する。
慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍に敗北し九度山に幽閉されていた幸村が、豊臣秀頼の招きに応じ大阪城へ入城したのは慶長19年(1614)10月のこと。入場した幸村は直ちに大阪城の南方が脆弱(ぜいじゃく)であることに気付き出丸を構築。それが「真田丸」である。
真田丸は大阪城の惣構え(外郭)から離れた位置にあり背後に幅200㍍ほどの谷を背負っていた。この地には現在も清水谷という地名が残っている。大きさは南北220㍍、東西140㍍、半円形に城郭が築かれていたといわれ、研究によるとそれよりもさらに大きく不定形あるいは五角形であったという説もある。
真田丸建築の目的は大阪城の脆弱性を補うだけでなく、ここへ徳川軍をおびき寄せ攻撃するためであったといわれ、慶長19年12月4日、世に言う「大坂冬の陣」が真田丸を舞台に繰り広げられ、前田利常・松平忠直・井伊直孝・藤堂高虎など徳川方の大軍を手玉にとり大勝利を遂げた。
大坂冬の陣の後、徳川と豊臣による和議の条件により真田丸は破壊されている。現在、真田丸跡は大阪明星学園のグラウンドであるといわれ、付近を通る道路沿いに「真田丸顕彰碑」が建てられている。大阪市営地下鉄長堀鶴見緑地線・JR環状線玉造駅から南西へ約500㍍。絵図でしか記録が残らない幻の城といって過言ではない真田丸。幸村最後の決戦はここを中心に始まった。
(次田尚弘/大阪市)