ぶらくり丁と街の変化 老舗店主が語る歴史
方言で商品を「ぶらくる(ぶら下げる)」様子が名前の由来となったといわれる和歌山県和歌山市のぶらくり丁商店街は、市中心部のにぎわいの象徴として明治から昭和にかけて栄えてきた。商店街の草創期から130年にわたって営業を続け、3月に店を閉じる島清金物店の5代目店主・島幸一さん(72)は、商店街の歩みを長く記録してきた。商店街や店の歴史、消費者の変化について聞いた。
――島清金物店の歴史を教えてください。
1887年(明治20)に島清兵衛が創業し、1919年(大正8)からぶらくり丁内で営業を始めました。私が東京での学生生活を終え、父・清太郎の跡を継いだのは68年(昭和43)のことで、時代は高度経済成長期を迎えていました。この時代は多くの商店主が次の世代に高学歴や大手企業への就職を望みました。私も父から継承を望まれたわけではありませんでしたが、生まれ育った場所で商売をするのが当たり前だと思っていました。
――当時の店の様子はどうでしたか。
店の売上は順調に伸び、最盛期には社員が15人、年商は1億円を超えました。年に2回、大売り出しをしていましたが、約10年にわたって盛況でした。自分の店だけでなく、商店街の振興にも力を尽くそうと思い、88年(昭和63)から96年(平成8)まで「ぶらくり丁商店街協同組合」の理事長を務めました。
――商店街に変化があったのはいつごろですか。
81年(昭和56)にダイエー和歌山店が小雑賀に出店したことが、消費者の流れに変化をもたらし、商店街の売上が伸び悩むきっかけになったと思います。その後、郊外型大型店の出店が相次ぎ、消費者はそちらに流れるようになっていきました。
危機感を抱いた私たちは89年、周辺の6商店街、約250店舗が参加する「和歌山市中央商店街連合会」を設立しました。近隣の百貨店との連合売り出しや、歩行者天国の「わいわいぶらくりカーニバル」を開催するなど、商店街へ客の流れを作る方策を講じましたが、郊外型大型店の進出には勝てず、集客につながりませんでした。
特に、2001年(平成13)の丸正百貨店の倒産がもたらした影響は大きく、集客に一段とかげりが見え始めました。
――好景気に沸いていた商店街の衰退は、なぜ止まらなかったのでしょうか。
自家用車やインターネットの普及によるライフスタイルの大きな変化、商店の後継者が育成できていなかったこと、変化する消費者ニーズに適応ができなかったことなどが思い当たりますが、外的、内的、両面の理由があるのではないでしょうか。
――130年続く店を閉じる決断をしたのはどうしてでしょうか。
地域を愛し、専門店の存続にもこだわってきましたが、人口の多い大都市では専門店を求める消費者もあり、生き残り策も見いだせるでしょうが、人口が減少傾向にある和歌山では難しいと感じました。6代目の三男が会社勤務の職を得たこともあり、閉店を決断しました。
妻(陽子社長=68)と共に店を切り盛りしながら3人の息子を育てました。今は店の中に聞こえる孫の笑い声がうれしいですね。
――現代の消費者は、郊外型大型店を利用し、通信販売などで店舗を介さない買い物も増えています。ぶらくり丁周辺をはじめ中心市街地では新しいまちづくりの動きも出てきていますが。
資本力、販売体制では大型店に及びませんが、地域の商店は、お客さまと対面して商売をしてきた経験と、商品知識も併せてお客さまに提供するという商人としての矜持(きょうじ)を持っているという点で、大きく勝っていると思っています。
人には感情があるので、いつかは、懐かしい場所や、方言が聞けるような身近な会話を求めたくなるのではないでしょうか。