西条藩を知る(10)功績称える「十河信二記念館」

 前号では、「鉄道歴史パーク in  SAIJO」にある「四国鉄道文化館南館」を取り上げた。蒸気機関車からディーゼル機関車、0系新幹線、フリーゲージトレインまで、昭和から平成へ、時代の移り変わりとともに進化し人々の暮らしを支え、文化を育んできた鉄道の遺産を紹介する施設。
 ここには、四国鉄道文化館北館・南館に加え、十河氏の功績を伝える「十河信二記念館」がある。今週より、十河信二氏の功績を紹介したい。
 十河信二氏は1884年愛媛県新居郡(現在の新居浜市)の生まれ。旧制西条中学(現在の県立西条高校)から旧制一高、東京帝大を卒業し1909年鉄道院に就職。南満州鉄道の理事を務めた後、45年、西条市長に就任。当時、国鉄では洞爺丸事故や、高松市沖で起きた紫雲丸事故が相次いで発生。総裁が引責辞任するも後任がいない状況であったという。
 十河氏の手腕に白羽の矢が立つが年齢と健康を理由に辞退。しかし、四国出身の国会議員・三木武吉氏からの強い要請に応じ、第四代国鉄総裁に就任。71歳のことであった。
 就任後、東海道新幹線の建設を推進する。新幹線の研究報告を当時の国鉄技師長に指示するも資金不足を理由に実現は困難と拒まれ、それを契機に技師長を辞任させた。
 十河氏が後任に指名したのが「島秀雄(しま・ひでお)氏」。島秀雄氏の父「島安次郎(しま・やすじろう)氏」は和歌山市の出身。鉄道技術者として知られ、1939年、新幹線の線路規格である「広軌」への改築を検討する特別委員長を歴任するも戦局の悪化で計画は頓挫。安次郎氏は46年に死去。広軌による高速鉄道の計画は、安次郎氏の遺志。父の思いを実現しようと秀雄氏を誘ったのが、十河氏だった。
(次田尚弘/西条市)