主君が2度変わり完成「上田城」
前号では、日本一の兵と評された真田幸村が、上田に生まれ九度山へ隠棲するまでの経歴を取り上げた。今週は上田城の歴史を紹介したい。
上田城は、天正13年(1583)真田昌幸(幸村の父)により築城された城。当時、徳川家康に仕えていた昌幸は家康からの援助を受け築城を開始。しかし、豊臣秀吉からの攻撃を防ぐため、所領であった沼田領を北条に譲るよう言われた昌幸はそれを拒絶。家康と断行した昌幸は、上杉景勝に幸村を人質として差し出し、築城の援助を受けることとなる。
その後、天正13年(1585)8月に徳川軍が7000人の大軍で上田城を攻撃。それに対し昌幸はわずか2000人足らずの兵で撃退。これを第一次上田合戦という。上田城は、この戦いの直後に完成。築城途中に主君が変わるという珍しい形でできた城である。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いに伴い、第二次上田合戦が起きる。上田を攻めた徳川秀忠の軍は、昌幸の抗戦により上田に足止めされ、関ヶ原での石田三成との決戦に間に合わなかった。それが契機となり家康の怒りを買い、関ヶ原の戦いで石田三成が敗北したことで昌幸と幸村は九度山に隠棲。上田城は徳川に接収され破却されることとなる。
関ヶ原の戦いで徳川方についた幸村の兄・信之が上田領を家康から与えられるも、破却された城を再建せず、現在の上田高校の場所に屋敷を構える形で藩政を執ったとされる。信之の時代で再建されなかった上田城であるが、信之が松代に配置換えとなり、新しい領主として上田に入った仙石忠政が、寛永3年(1626)から上田城の復興に取り掛かる。櫓の再建などが行われるも天守は再建されず明治維新を迎えた。
(次田尚弘/上田市)