90歳譲れぬ職人魂 自転車修理店の大岡さん

白壁の商家が残る和歌山県海南市の町並みの一角、90歳になっても自転車修理の店を続ける男性がいる。日方の店舗を兼ねた自宅で妻と暮らす大岡一恵(かずしげ)さん。「ぼけ防止で続けとるだけです」。常連客であれば、誰でも目じりを下げて笑う好々爺(や)の表情とは全く違う、別の顔を持っていることを知っている。

その両の眼が鋭く変わったのは、2年以上も放置された古い自転車を一瞥(いちべつ)した後だった。「うぅん」。困ったからうなった訳ではない、腕を振るえるうれしさに発した声。同時にタカが獲物を見つけた時のような目つきに。顔全体がぐっと引き締まる。

愛想の良さのかけらも残ってない表情のまま、自転車の周りをゆっくり歩く。タイヤに触れ、さらに近づいて空気音に耳を澄ます。フレームを揺らしてがたつき具合も試す。医者が聴診器を当てて診断する様に似ている。

「(タイヤの空気漏れを防ぐ)虫ゴムとブレーキがあかんな」。客の方に振り向いた時は好々爺に早変わり。ただ、修理が始まれば、また鋭い目つきに戻る。耳が遠いことも忘れたかのように、タイヤのフレームとブレーキパッドが当たる音にじっと聞き入る。

「もう大丈夫や」。10分間の「変身映画」が終了した。エンドロールの余韻さえ許さない早業。「うわぁ、走るようになった」。自転車を押してやって来た依頼者が軽やかにペダルを踏み、店を後にした。

十代の頃から、生業の相棒だった「自転車」。現役を続ける限り、愛情にも似た姿勢で真摯(しんし)に向き合うべきだと感じており、譲れぬ職人魂もある。

「正確な年はよう覚えてないんです」と語る、明治初めごろに生まれた祖父の代から続く自転車店の3代目。「甘やかしたらあかんちゅう、じいさんの一言で決まった」大阪の自転車店での「奉公」。当時16歳。朝6時から夜遅くまで働いた。

終戦直後の自転車は、自動車全盛前の貴重な移動手段だった。一日10台以上の修理はざらで、くたくたになって最終風呂に入る。手に付いた油汚れは灯油で洗い落とした。

「新車の納入はどうしたと思う? 自転車を片手乗りして並走してこぐんや。山道も関係ないんやから芸当や。今はようできません」。懐かしそうに笑う。

2年半で故郷に戻り、二十歳ぐらいで店を継いだ。あれから70年が過ぎた。

「20年ぐらい前からかな。新しい自転車はもう売らんようにしました」

自転車は子どもと一緒。売った(生まれた)んなら、責任を持って修理する(見守る)べきだとの持論がある。2カ月後に店をたたむ予定だった、ある同業者は閉店を隠して間際まで新車を売っていた。修理するより販売する方が楽で見入りがいいからだ。批判なんて毛頭ない。ただ、自分にはできない芸当だとは思う。

「いつぽっくり死ぬか、分からんでしょうが。売り続けたら客が困るし、自転車もかわいそうや」

朝は雨の日以外、2㌔ほど離れた「小中地蔵」へのお参りを欠かさない。もちろん、自ら自転車に乗って向かう。

職人魂を秘めた鋭い眼の表情と、妻薫さん(88)の「普段は優しく、ようしゃべる」好々爺という、二つの顔を使い分ける日々。90歳になっても「オン」「オフ」を自在に操れる絶妙な人生の積み重ねが、若さを保つ秘訣(ひけつ)なのかもしれない。

古めかしい修理道具が並ぶ店を開け放ち、油まみれのかじかんだ指先をストーブにかざしながら、きょうも自転車と共に店をのぞく人を待ち続けている。

鋭い眼光で修理する大岡さん

鋭い眼光で修理する大岡さん