郭家住宅を国重文指定へ 文化審が答申

国の文化審議会は17日、和歌山市今福の郭家住宅を国の重要文化財に指定するよう文部科学大臣に答申した。紀州藩の御殿医を代々務めた郭家が暮らし、医院を営んだ10棟の建造物群で、中でも明治初期の洋館は、現存する擬洋風の住宅として最古級であるなど価値が高く、県内初の擬洋風建築の国指定建造物となる。今回を含めて県内の国指定重要文化財の建造物(国宝を含む)は87件となる。

郭家の初代は中国・清朝の侍医だったが、国乱を逃れて江戸初期の明暦年間(1650年代)に長崎に渡ってきたとされる。3代目の時期に和歌山に移り、同じく医業に従事。4代目が寛政6年(1794)に紀州藩の御殿医となり、以降7代目まで代々御殿医を務めた。

最後の御殿医となった7代目・郭百輔は西洋医学を学び、明治7年(1874)には、和歌山県から和歌山医学校兼小病院の設立議員に任命され、創立に尽力。この病院は現在の日赤和歌山医療センターの前身となる。

百輔は明治10年(1877)、今福の自宅に洋館を建築し、郭医院を開業した。西洋医学による地域医療に尽力し、郭医院は8代目・郭嘉四郎が昭和3年(1928)に没するまで続いた。

重要文化財となる郭家住宅の各建造物は、洋館、診察棟、座敷、離れ、米蔵、東土蔵、南土蔵、風呂、外便所、表門及び石塀、土地。

郭家は寛政10年(1798)に屋敷を構え、米蔵はこの時期の建造と考えられる。洋館と診察棟は明治10年の建設で、同14年(1881)に座敷を購入して移築した。同24年(1891)に離れ、東土蔵、同40年(1907)に風呂と南土蔵を建設。同41年(1908)には北側の敷地を購入し、大正14年(1925)に外便所、表門及び石塀がつくられ、現在の形となっている。

洋館は、江戸時代から続く日本の建築技術を元に造られた明治時代初期の「擬洋風建築」によるもの。木造2階建て、瓦ぶきで、正面に玄関ポーチと2階にベランダを備えた特徴的な外観。1階は2室からなり、待合や薬局、応接に使用されていた。開き戸にはペンキで木目を描いた木目塗りの痕跡があり、明治前期の擬洋風建築らしい特徴を備えている。

座敷は木造平屋建て、瓦ぶき。茶室建築などに見られる数奇屋風座敷で、網代天井や凝った組子の障子を用いるなど、濃厚な茶席の意匠が施され、医師であり文化人であった郭百輔の意向や趣味が反映されている。

襖の絵師の年代観から、この建物は天保年間(1830~43)の建築と推定される。元紀州藩士、外務大臣の陸奥宗光の生家である伊達家から移築したと伝わっているが、文書では確認できない。

郭家住宅は個人所有で、1997年に国の登録有形文化財となっていたが、維持管理に行政の補助はなく、貴重な文化的価値を保存するには指定文化財への格上げなどが必要として、建築関係者や住民らによる「郭家住宅の会」が、保存と活用を訴える運動を続けていた。

同会の代表、西山修司さん(74)は「大変うれしい。7490筆にも及ぶ署名をはじめ、多くの方々にご支援・ご協力を頂いたおかげ」と喜び、「今回の指定は重要なステップではあるものの、終着点ではない。今後も地域や県民の皆さんに、この建物を残しておいて良かったと感じてもらえるよう、趣のある洋館を生かし、文化財に親しんでもらえる取り組みを続けていきたい」と話した。

指定の答申を受け尾花正啓和歌山市長は「指定に至ったのは積極的に活動された方々の力も大きい。市としても、できるだけ多くの人に活用してもらえるような保存を考えていきたい」と話した。

郭家住宅の外観。中央が洋館、右が東土蔵(県教育委員会提供)

郭家住宅の外観。中央が洋館、右が東土蔵(県教育委員会提供)