桑山玉洲筆の石碑か 和歌浦天満宮で発見

和歌山市和歌浦西の和歌浦天満宮(小板政規宮司)で、知られざる歴史の手掛かりとなる発見が相次いでいる。境内東側の山林で4月、石段とその奥に建つ石碑が見つかり、県書道協会の小島健堂会長が石碑の文字を調べたところ、江戸時代中期に活躍し、和歌浦の名所などを描いた文人画家、桑山玉洲(1746~99)の筆による可能性が高いことが分かった。

石碑は、江戸時代に使われていたとみられる41段の石段を登った先の崖に面した広場に立ち、台座を含め高さ1㍍90㌢、幅70㌢の大きさ。風化の影響もあり、文字の判別が困難だったため、同宮は小島会長に調査を依頼した。

表側には、美しい崖を意味する「玉巖(ぎょくがん)」の文字。裏側には漢文が刻まれており、その大意は「中国・明時代の地理書『大明一統志』によれば、浙江省宣平県に玉巖山と呼ばれる山がある。東側には東巖があり、四方は急峻なため、狭い道を通って入るしかない。少し西側には西巖があり、二つの岩は向かい合っていて、その間に清風峡がある」というもの。

小島会長によると石碑の文字は「玉」の点の位置や力の入れ方が独特で、桑山玉洲が残した他の書とほぼ一致した。

石碑が建立された理由は不明だが、日本では禅の修業場に「玉巖舎」の名称が多く用いられることや、石碑が立つ崖の下付近にはかつて、徳川家康の側近だった天海により、紀州東照宮の別当寺院として開かれた「雲蓋院」があった歴史があり、小島会長は「石碑の下には寺があったのではないか。歴史的な意味があって建立した石碑ではないかと思う」と想像している。

桑山玉洲は、和歌浦で廻船業、両替商を営んでいた町人、桑山昌澄の長男として生まれた絵師。和歌の聖地である和歌の浦の名所十景と、万葉集や新古今和歌集で歌われた情景を融合させた「明光浦十覧冊」を描いた。玉洲と和歌浦天満宮との詳しいつながりは不明だが、氏子であったという。

現在、石碑が立つ崖は木々に覆われ、周囲を見渡すことはできないが、小板宮司は「石碑から見下ろす風景はどんな感じだったのか。海があり、社寺がある美しい和歌浦の風景が目に浮かんでくる」と話し、県と市による今後の調査の進展に期待している。

 

「玉巖」と刻まれた石碑を示す小板宮司

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