家康紀行⑩浜松城築城の歴史と背景

前号に続き、家康が17年間在城した浜松城の歴史を紹介したい。

家康が岡崎城を長男の信康に譲り、今川家の家臣・飯尾氏が城主を務めていた曳馬(ひくま)城を拡張し浜松城と改称したことは前述の通り。

桶狭間の戦いで今川義元が討死し今川氏の衰退が進む頃、曳馬城の城主・飯尾連龍(いのおつらたつ)が今川氏真に謀反の疑いを持たれ、永禄8年(1565)この地は今川軍により包囲され多大な被害を受けた。連龍は氏真からの和睦を受け入れ、今川氏への再属のため駿府へ出向いたものの和睦は謀略であり駿府城で謀殺される。

その後、連龍の家老・江間氏により守られるも城内は徳川派と武田派に分かれる内紛が発生。間もなくして家康により攻略されたという。一説には連龍の妻・お田鶴(たづ)の方をはじめとする飯尾氏の残党が城を死守しようとしたが、城の明け渡しを条件に今後の面倒をみるという家康からの降伏を受け入れなかったことから、家康の兵に攻め込まれ討死したとされる。お田鶴の方は別名を椿姫と称したことから、城の近くに「椿姫観音」が建てられ現在も地域の人々に弔われている。

曳馬城(浜松城)を手に入れた家康は以後17年にわたりこの地を拠点に武田氏との攻防が続く。天正10年(1582)に武田氏が滅亡した後、天正14年(1584)家康は駿府へ拠点を移す。以後は秀吉の家臣である堀尾氏や譜代大名が次々に在城。一時期は後の紀州徳川家の家祖となる徳川頼宣の領地であったこともある。

天守閣は昭和33年、市民の寄付により再建。昭和50年代に公園、市民プール、動物園、日本庭園などが整備され、現在も浜松城公園として地域の人々に親しまれている。

復元された浜松城天守閣

復元された浜松城天守閣

(次田尚弘/浜松市)