家康紀行⑤出世・開運を願う「伊賀八幡宮」

前号では徳川家康公を祭る三大東照宮の一つとされる滝山東照宮の歴史と文化について取り上げた。今週は松平家(徳川家の祖)の時代から、徳川家代々の祈願所として知られる伊賀八幡宮を紹介したい。

伊賀八幡宮は文明2年(1470)に松平四代・親忠(ちかただ)公が子孫繁栄の守護神として創建。伊賀国(三重県)からこの地に社を移したのが始まりとされ、以後、松平家と徳川家代々の祈願所となった。

天文4年(1535)12月、松平八代・広忠(ひろただ)公(徳川家康の父)は岡崎城を攻めてきた織田信秀(織田信長の父)を迎え討つことになり、八幡宮に武運を祈願した。その際、馬に乗り現れた武者が敵陣を目掛けて白羽の矢を放ったところ、八幡宮の森から黒雲が湧き出し嵐が起きて白羽の神矢が雨のように敵陣へと飛び、たちまち三万余りの敵陣は敗退したという。広忠公はその神矢を広い八幡宮に奉納したといわれ、家康公も尊敬の念をあつく持ち出陣の折には必ず祈願に訪れたという。

関ヶ原の戦いや大坂の陣の際には神殿が鳴動し、鳥居が動いたという伝えもある。桶狭間の戦いで軍を引き返そうとした際、八幡宮の神使であるシカが現れ松平家・徳川家の菩提寺である大樹寺(だいじゅじ)へと導かれるなど、さまざまな伝説が残る。

社殿の造営は広忠公、家康公、家光公により行われたものが主であり、現存する社殿の大部分は家光公による寛永13年(1636)の造営とされる。昭和8年に本殿、弊殿、拝殿、透塀、御供所、随神門、石橋、石鳥居、棟札などが国宝に指定。先の大戦で焼失せず、現在も国の重要文化財に指定。勝運出世・開運発展の神として人々の信仰を集めている。

伊賀八幡宮の随神門

伊賀八幡宮の随神門

(次田尚弘/岡崎市)