紀三井寺の絵画など 和歌山市指定文化財に
紀三井寺(護国院)に伝わる地蔵菩薩の絵画や江戸時代から現存する和歌山城追廻門(おいまわしもん)など5件が、新たに和歌山市指定文化財となった。さまざまな時代の歴史や文化を知る手掛かりとなる貴重な資料ばかりで、市指定文化財は合わせて75件となった。
◇地蔵菩薩立像
2019~20年度の調査によって発見された、県内では数少ない中世仏画の優品。穏やかで端正な表情、右手に錫杖(しゃくじょう)、左手に宝珠を持った姿で踏割蓮華座(ふみわりれんげざ)の上に立ち、画面左上から飛雲に乗って飛来する地蔵菩薩像を描いている。
輪郭を金泥の隈(くま)で立体的に表した雲や精緻な截金(きりかね)文様を施した着衣、錫杖や装身具などを彫塗(ほりぬり)で表現するなど、華やかさの中に静謐(せいひつ)なおもむきをたたえ、鎌倉時代後期の仏画の特色が表れている。
鎌倉時代には地蔵菩薩への信仰が高まり、特に南都(奈良)では、春日三宮の本地仏を地蔵とすることもあり、地蔵菩薩像が多く造られた。
中世における紀三井寺と南都との関りがうかがえ、極めて貴重とされる。
◇天部立像
紀三井寺の本堂厨子(ずし)後方の小壇に安置されている、観音菩薩と伝えられてきた像。カヤとみられる木材から彫り出され、やや厳しさを残した風貌、量感のある立ち姿などが10~11世紀の作風を示している。
蓋襠衣(がいとうえ)と呼ばれる衣をまとった天部(仏教の護法神)の姿は、紀三井寺の縁起の中で、同寺の開基、為光上人に七種の宝を授けた竜神を思わせる造形となっており、市内では少ない10~11世紀の貴重な作例といえる。
◇和歌山城追廻門
和歌山城の西側に位置する赤い門。城外の扇ノ芝に馬場があり、そこで馬を追い回していたことが門の名前の由来とされている。
鏡柱2本と内側の控(ひかえ)柱2本から構成され、鏡柱の上に冠木(かぶき)を渡して小さな切妻屋根をかぶせ、鏡柱と控柱の間にも小さな切妻屋根が設けられている。
1983~84年に行われた解体修理時の調査で、主要部材に当初材が多く残っていたことが判明。当初材の形状から創建時期は寛永期(1624~45)よりは古くなると指摘されており、元和年間(1615~24)までさかのぼることになれば、紀州徳川家初代・頼宣による砂の丸と南の丸の造営時期とも一致することになる。
重要文化財の岡口門を除き、和歌山城で現存する江戸時代の建造物は追廻門と井戸屋形のみで、追廻門は当時の景観を現在に残す貴重な文化財といえる。
◇伊太祁曽神社1号墳
伊太祁曽神社の境内、標高約20㍍の丘陵上に築かれた円墳の一つで、同じ丘陵上の3基の円墳により伊太祁曽神社古墳群が形成されている。
このうち1号墳は内容が判明しており、直径16㍍、高さ5㍍の規模で、内部の主体は西側に開口する両袖式の結晶片岩を小口積みした横穴式石室。奥壁に石棚1枚、石梁2本、低い位置には両側壁に組み込まれた屍床(ししょう)と呼ばれる施設が設けられ、県北部に特徴的な「岩橋(いわせ)型」と呼ばれる石室の代表例の一つとなっている。
出土遺物は確認されていないが、石棚、石梁の両方を備える石室の特徴から、横穴式石室の盛行期である古墳時代後期(6世紀)の築造と判断されている。
◇圓珠院資料
圓珠院は紀州徳川家初代・頼宣の命により京都愛宕社から和歌山城の鬼門の守護、城下の火伏(ひぶせ)として勧請(かんじょう)された愛宕権現社の別当寺。
和歌山城や歴代藩主の護持に関連する祈祷(きとう)や法要を行うなど、江戸時代を通じて藩と緊密な関係を結んだ紀州徳川家ゆかりの寺院であることから、6代藩主・宗直が書写した「紺紙金字般若心経」や、本堂(旧愛宕社)内の宮殿型厨子(くうでんがたずし)をはじめ、藩主やその周辺の人々が関わった遺品が多い。
また、享保年間の愛宕社の屋根ふき替えは城下の人々から広く寄付を募って行われており、それに関連する台帳などが残されている。享保の修繕での体制は以後、「享保の先例」とされ、直近の明治30年代の境内建て替えにまで引き継がれてきたことが圓珠院に伝わる文書群から分かる。
圓珠院資料は、市内に残る数少ない紀州徳川家との関係が明確にうかがわれる資料群であり、社寺の修復時の勧進の実態を知ることができる資料群という点においても重要とされている。