あの日の惨状忘れない 和歌山大空襲78年
和歌山市が米軍による爆撃を受けた和歌山大空襲から78年を迎え、犠牲者を悼む市戦災死者追悼法要が9日、西汀丁の汀公園戦災死者供養塔前で行われた。参加した約80人が平和の尊さをかみしめ、不戦の願いを新たにした。
同市は太平洋戦争中、米軍から十数回の空襲を受け、約1400人が犠牲になっている。1945年7月9日の大空襲では市内の中心部が焼け野原となり、人々が避難してきた汀公園では火災旋風などで748人が亡くなった。
法要は市戦災遺族連合会(田中誠三理事長)の主催で毎年行われている。
田中理事長(87)は、78年がたった今でも目を閉じればあの日の地獄のような光景がよみがえるという。式では「戦火の中を必死で逃げまどう人、最愛の肉親を失い耐えがたい悲しみにくれる人たちの恐怖と悲痛の惨状は私の記憶から消えることはない」と二度と繰り返してはならない戦争への思いを伝えた。「きょうの平和と繁栄は戦争によって亡くなられた方々の尊い犠牲の上に成し得たものであることを忘れてはならない。悲惨な戦争の教訓を風化させることなく後世に継承していくことが私たち遺族の責務。命の重み、平和の尊さをこれからも訴え続けていきたい」と決意を述べた。
和歌山大学付属小学校6年生の岡本惠津子さんと重光可恵さんは平和への願いを朗読。「戦争を体験した人たちが当時感じた苦しみや思いは自分たちには一生分かることはないと思う。でも分かろううとすることが今の自分たちにできる精いっぱいのこと。平和について考え続け自分の大切な人や大好きなまちを傷つけないようにしたい。それが平和な時代に生きる自分たちの使命だと思っています」と力強く発表した。
市仏教会の僧侶が経を唱える中、参列者は一人ひとり戦災死者の霊に鎮魂の祈りをささげながら焼香した。
供養塔前には伏虎義務教育学校、和歌山大学付属中学校、市立八幡台小、野崎西小の児童・生徒、教員らが作った千羽鶴が奉納された。
何千回も「神様助けて」 悲惨な戦争、もう二度と
この日、参列した遺族や体験者らは、さまざまな思いで手を合わせた。
同市の安野谷静美さん(74)は、夫の姉を和歌山大空襲で亡くした。義母は1歳の夫を背負い、6歳の姉の手を引き必死に逃げた。近くに落ちた爆弾による強烈な爆風で、姉は和歌山城の堀に吹き飛ばされ、命を落とした。義母と夫から何度もその話を聞いてきたという。「ニュースでウクライナのことを見ると、こういう状況だったんだなと思う。義母の思いを受け継ぎ、毎年参列していきたい」と祈りをささげた。
同市の湯川せつ子さん(69)は父の姉と祖父の姉を亡くした。母から空襲の話はよく聞いていたと言い「家が十二番丁にあり、翌日疎開しようと思っていたら大空襲に遭ったと聞いている。家が跡形もなく全焼し、遺骨も見つかっていない」と話していた。
当時10歳で和歌山大空襲を体験した同市の藤田俊夫さん(88)は、和歌山城の石垣にあった穴の中に家族で逃げた。爆弾が落ちる音、人々が泣き叫ぶ声、お城が焼け落ちるごう音と恐怖で耳をふさぎ、目をつぶりながら「神様助けて」と何千回も祈ったという。「穴の中には逃げまどう人が殺到し、『これ以上入ったら窒息するぞ!』と阻止する声、必死に中に入ろうとする人の叫び声、止まらない爆撃…阿鼻(あび)叫喚の光景だった」と振り返った。翌日、自宅のある十二番丁に戻ると、家は跡形も無く辺り一帯焼け野原で、紀の川の堤防まで見渡せるほど何も無くなっていたという。「子どもにあれほどまで悲惨な思いをさせる戦争は二度とあってはならない」と強く訴えた。