戦争の愚かさ語り継ぐ 遺族会理事長の田中さん

1945年の夏、和歌山市が米軍による爆撃を受けてから、ことしで80年を迎える。砂山南の砂山小学校(小杉栄樹校長)で19日、市戦災遺族会を招いた平和学習があり、6年生の32人が体験談に耳を傾け、平和の尊さをかみしめた。
「80年前、9歳で小学校3年生の時だったが、昨日のように覚えています」と同会の田中誠三理事長(89)は語り始めた。田中さんは8人きょうだいの末っ子で、実家は東長町で鮮魚店を営んでいた。1945年6月22日、2歳違いの兄と庭にいた田中さんは、上空から落ちてくる爆弾を目撃。とっさに庭の防空壕に飛び込んだが、爆弾の衝撃で生き埋めになった。兄と共に助けられ、小松原の収容施設で意識を戻したが、自宅は跡形もなくなり、先に防空壕の奥に避難していた2人の姉は圧死、自宅にいた母は変わり果てた姿で亡くなっていたことを、5日ほどたって知った。地元で美人と評判の母だった。田中さんは「なぜ自分が生き残ったのか分からない」と話す。
その後、身を寄せた海南市下津町の親戚の家で空襲に遭い、和歌山市に戻った矢先の7月9日深夜、B29による爆撃を受けた。田中さんはきょうだいらと燃えるまちなかで防火用水を何度もかぶりながら逃げ回った。
翌朝、紀の川を渡って北へ逃げようと川に入ったが、米軍の攻撃を間近に受け、戻って川に架かる鉄橋の枕木の上を伝って逃げた。今でもその鉄橋を見ると、当時の恐怖心がよみがえるという。
下津町で終戦を迎えた田中さんは、大阪の闇市で魚を売るなどして家計を支えた。磁石で集めたくぎや金物、削り直した焼け跡のレンガ、米軍の落とした焼夷弾の筒などを売り、他人のサツマイモ畑で採り残された細く小さな芋を探し集めて飢えをしのいだ。「闇市は警察に見つからないかと怖かった。悪いと分かっているけど、生きていくため、家族のために。悲しいけれどそういう生活だった」と話した。
講演で田中さんは、家の近くに落ちた250㌔爆弾の破片や、空襲で溶けたガラスの塊などを児童に手渡して紹介した。
森楓さん(11)は「戦争は怖いし、二度とやってはいけないと思った。今は健康が当たり前でも、昔は栄養失調の子どもが多かったことを知った」、牧野晴音さん(11)は「悪いと分かっているのに、生活のためにお金を稼いだという話が印象的だった」と話した。
田中さんは「戦争は愚の骨頂。人の物を欲しがったり名を知らしめるなど、戦争は全くばかげている。人の物が欲しいと思っても自制心で止めて、殴って取りに行くようなことはしない。一人ひとりに良心があれば。日本の平和が100年、200年と続いてほしい」と訴えた。
80年前の後遺症で、ゆがんだ背骨が右肺を圧迫した体になってもなお、和歌山市小松原で現役で紳士服の仕立て店を営み、京都や四国など県外にも赴く。「あんな目に遭ったから、今、一生懸命生きています。皆さんも懸命に生きて、そして友達を大切にしてください」と呼びかけた。