洲本・和歌山「紡績工業」の歴史

前号では、洲本市中心部に位置する紡績工場跡地の「赤レンガ建築群」を取り上げた。明治期に栄えた紡績は、海を通じた物流の要衝として、綿花が手に入りやすい環境であったことに起因する。紡績の歴史は対岸の和歌山市にも存在。現在も地場産業として受け継がれている。今週は和歌山市の産業の歴史から、紡績が盛んとなった理由に迫りたい。
和歌山の紡績は江戸時代後期、紀州藩が足袋の生産を推奨したことに起因する。足袋の生地には綿花を起毛させた「紋羽織り」という生地を使用。改良が重ねられた結果、新たな起毛繊維が生まれ「紀州フランネル(紀州ネル)」と呼ばれるように。やがて、丸編み機による「ニット(メリヤス)」に発展し、和歌山市を中心に多くの紡績工場が建ち並ぶようになった。
明治15年(1882年)の記録によると、和歌山市の湊地区で荷揚げされた物資の9割が綿花。荷物の出発地は神戸で、その量は1162万斤(約6900㌧)。和歌山市において紡績が盛んであったことがうかがえる。
江戸時代から伝わる技術と海を通じた綿花の入手が産業の発展に貢献したわけであるが、全国で栽培された綿花が神戸に集まり、そこから紀淡海峡を南下し和歌山へと届けられていたという背景から、海を隔てて近接する洲本においても、綿花の入手が容易であったと推測できる。
和歌山市内を見回すと、所々に紡績工場が存在した面影が残る。例えば新南地区にある大型スーパーは紡績工場の跡地で、赤レンガが詰まれた塀が現存。時を同じくして紡績で栄えた両市。歴史をたどれば海を通じた発展の歴史がうかがえる。(次田尚弘/洲本市)

