和歌浦天満宮で石段発見 東照宮への経路か

日本三菅廟の一つとして長く信仰を集めている和歌浦天満宮(和歌山市和歌浦西)の境内の山林で、江戸時代に使われていたとみられる石の階段が見つかった。同宮と社官(神主)を兼務し、関係が深かった紀州東照宮へと続く経路と推測され、今後の調査の進展が期待される。

石段が見つかったのは、非公開としている禁足地。小板政規宮司によると、4月初旬に山林を掃除していた際、土に埋もれた青い石の一部を発見。土を少しずつ取り除いていくと石段になっていることが分かり、周辺を傷つけないよう土砂や木の根、草で覆われていた部分を掘ると、41段にわたりつながっていた。

一部が損壊しているものの、きれいな保存状態で、小板宮司は「紀州東照宮と行き来するために使っていた道ではないか」と推測し、県と市に報告した。

和歌浦天満宮は、平安時代の康保年間(964~968)に菅原道真公を祭る神殿が建立されたのが始まりとされる。天正13年(1585)の羽柴秀吉の紀州攻めの際に社殿は焼失したが、慶長11年(1606)に徳川家入国前の紀州藩主・浅野幸長が現在の社殿を再建し、国の重要文化財に指定されている。

こうした由緒ある和歌浦天満宮の隣地に元和7年(1621)、紀州徳川家初代・頼宣により建立されたのが紀州東照宮。和歌浦天満宮は地主神(じぬしのかみ)とされ、和歌浦天満宮の社官が紀州東照宮の社官を長く兼務し、両宮に奉仕してきたことが、和歌浦天満宮に伝わる古文書に記録されている。

県文化財センター文化財建造物課の多井忠嗣課長は、今回の石段の発見について「両神社は密接に関係していたことから、経路が整備されたもので、明治以降から使われなくなったと考えられる」と話している。

石段の先には石碑と堂の跡も見つかっており、同センターの調査で新たな歴史が明らかになるのか、注目される。

和歌浦天満宮では昨年2月にも、江戸時代初期に徳川頼宣が奉納したとみられる装飾品、金属製の真榊(まさかき)が見つかっており、相次ぐ歴史的な発見を喜んでいる。

小板宮司は「歴代の紀州藩主の和歌浦天満宮に対する思いを、400年の時を超えて感じる」と話している。

境内の山林で見つかった石段を示す小板宮司