語り継ぐ島民の体験 県内中学生研修リポート②

中学生に講話をする米屋さん
中学生に講話をする米屋さん

北方領土問題を学ぶ研修の2日目、生徒たちは、北海道根室市穂香の道立北方四島交流センター(ニ・ホ・ロ)で、母親が歯舞群島の勇留(ゆり)島に住んでいたという語り部の米屋聡さん(64)から、語り継がれてきた旧ソ連軍の侵攻の様子や北方領土の歴史などを聞いた。

米屋さんは千島歯舞諸島居住者連盟根室支部後継者「かけはしの会」の顧問。勇留島の2世として、後世に語り継ぐ活動をしている。

中学生たちに米屋さんは、北方領土返還を願いながら他界した元勇留島民の高橋孝志さんが残した手記を紹介した。


手記によると、1945年9月、ソ連兵が勇留島に入ってきた。家に銃を持ったソ連兵が土足で入り、家中を物色。島の16歳以上の男女は働き手として缶詰工場へ連行され、高橋さんの兄2人も労働徴用として連れて行かれた。

同年12月まではソ連兵が少数だったため、島からの脱出や、根室などへは自由に出入りができた。兄が徴用されていた高橋さんの家族は島に残った。46年4月、ソ連の国境警備隊が入り、状況が一変する。脱出が不可能となり、本土との連絡も途絶えた。

約70家族500人いた勇留島の島民は9家族40人になり、47年8月、強制的に島を追い出された。ソ連の貨物船に4島の引揚者約600人が乗った。行き先が分からなかった高橋さんは、「日本に帰れるのだ」との希望の思いを持ち乗船。しかし、残念ながら着いたのは樺太だった。

樺太での生活は「地獄のようだった」。食事はパンとスープ、生のニシン。衰弱と寒さで次々と人が亡くなった。亡くなった人は近くの小屋に集められ、ある程度の人数になるとトラックで運ばれていく。荷台に放り投げられ、運ばれていく光景に声を押し殺し、手を合わす人や泣き叫ぶ人がいた。

11月になり、引揚船に乗船するよう知らせが入った。抑留者は歓喜の涙。函館に向かう船内での食事を、高橋さんは一生忘れることはなかった。空襲で根室の街は7割が燃え、住むところはなかったが、島民の8割以上は島を臨む根室へと戻った。

希望を捨てずに島に戻れる日を夢見てきたが、「64年の歳月が流れ、いまだに故郷にいけない現状が歯がゆくてならない」――。晩年の高橋さんの手記には、こう記されている。


生徒たちは米屋さんが話す元島民の体験に、じっと耳を傾けた。

御坊中学校3年の川村悠さん(14)は「手記を通しての実体験がとても分かりやすかった。もっと教科書に載せるべきだと思う。自分たちの意識を高め、現状を身近な人から伝えていきたい」と話していた。

米屋さんは「北方領土問題は、われわれにとっては本当に大事なこと。高橋さんの功績を生かし、語り継いでいく」と決意をみせた。