「地獄」で見た父の気迫 語り継ぐ記憶、岡田久子さん

旧県庁へ逃げた体験を語る岡田さん
旧県庁へ逃げた体験を語る岡田さん

8月15日で、終戦から81年を迎えた。戦火を必死に逃げ惑い、焦土と化した街を見つめた、あの日の記憶。戦争体験者の高齢化が進む中、いかに次世代へ継承するか。記憶を風化させることなく、二度と同じ過ちを繰り返さないよう、その貴重な証言に耳を傾けた。

焼夷弾が降り注ぐ中、父の背中を追って必死に駆け抜けた。当時、和歌山市下ノ町に住んでいた岡田久子さんの脳裏には、和歌山大空襲の夜、黒焦げになった街の光景が今も鮮明に焼き付いている。

岡田さんは朝鮮半島の開城(ケソン)で生まれた。父は現地で新聞記者として勤めた後、中国に渡り山西省汾陽で写真館を営んでいた。戦況の悪化により日本への引き揚げを決断し、1941年に帰国。父の故郷である和歌山市へ移り住み、43年に母を亡くした。 

岡田さんは兄と妹との3人きょうだい。父は母を失った幼い子どもたちを連れ、「空襲警報が鳴ったらどこへ逃げるのが一番安全か」を話し合い、避難の準備をしていた。

45年7月9日、その夜は突然訪れた。父と共に西汀丁の旧県庁へと逃げ込んだが、すでに建物の中は人であふれ返っていた。「ここはいっぱいだ! 出て行け!」――。冷酷に放たれた強い拒絶の声は、幼い岡田さんの胸に深く突き刺さり、今も耳から離れない。

父に手を引かれ、和歌山城の一の橋を目指して走った。道中で靴が脱げても拾う余裕などなかった。橋のたもとで、父は兵隊に呼び止められた。当時40代で海外にいて徴兵されていなかった父に対し、「なんで戦争に行ってないんや!」と血走った目が容赦なく向けられた。「この子どもたちを責任持って守ってくれるんやったらいつでも戦争に行きます」。父が鬼気迫る勢いで言い返すと、相手も圧倒されたのか、和歌山城の石垣下の洞穴へと滑り込むことができた。

頭上ですさまじい爆撃が響く中、ぎゅうぎゅう詰めの暗闇で、ただ父の手を強く握りしめて命をつないだ。

空襲の翌日以降の光景も忘れられない。たくさんの遺体が積み上げられ、焼かれる光景を学校の校舎からも目にし、その独特のにおいが漂ってきたことは今でも強く心に残っている。

築地橋の周辺や小学校での避難生活を経て、米軍のテント村へお菓子をもらいに行ったことなど、戦後の混乱期の子ども時代の記憶は今も鮮明。

岡田さんは「天国と地獄のような時代を経験して、平和がいかにありがたいか身に染みています」と話した。