秋の叙勲 和歌山県内からは43人

 本年度 「秋の叙勲」 (3日発令) の受章者が発表された。 県内からは43人 (うち女性5人) で、 最高齢は海南市野上新の元公立小学校長、 稲田良作さん (93) =瑞宝双光章=、 最年少は紀の川市切畑の児童養護施設 「丹生学園」 主任、 溝上絹代さん (61) =瑞宝単光章=。 伝達式は7日から15日にかけて県庁などで行われる。               

瑞双・大道 眸さん

約30人を更生に導く
 当時の和歌浦地区連合自治会長の依頼で保護司を始める。 きょうまでの38年間で約30人の保護観察対象者と接してきた。 時間厳守が信条で、 受け持った対象者には時間通りに訪問するようしつけてきた。 対象者とは同じ目線で向き合うことにも努めた。 シンナーや覚せい剤に手を染めた者と向き合い、 時にはけんかもした。 苦労は絶えず、 中でも担当した対象者が再犯した時は 「自分の指導の甘さのせいだ」 と悔やんだが、 更生した対象者の姿を見るたびに、 妻の貴美子さん (72) と共に喜びをかみしめた。 正月や盆に子どもを抱えて家を訪ねる更生者もおり、 「こんなにうれしいことはないですね」 と笑顔を見せる。

 現在は、 和歌浦地区連合自治会長や市人権委員会理事、 社会人野球の和歌山日曜野球運営委員長を務める一方で、 自営業の研磨店も営む。 受賞については、 「感激しています。 長年続けてきたことが認められました。 本当にありがたい」 と話した。


瑞双・福田 惠誠さん

受刑者諭し続け40年
 「人生はやり直しはできないが、 出直しはできる」 と受刑者に諭し励まし続けて40年。 今も受刑者らとお経を読み、 「 『辛 (つら)』 いトンネルを通り抜ければ、 『幸』 せになれる」 など、 漢字を用いた心に響く教誨 (きょうかい) を続けている。 日蓮宗遍照寺院首の福田さんは、受章について 「家族を始め、 教誨事業後援会の皆さんや多くの方々に支えられ、 健康でいることができたおかげ。 心から感謝しています」 と喜びを語る。

 がんを患い他の刑務所へ移らなければならなかった受刑者が、 大学ノートに写経を続けたことや、 初めて教誨したときに頭が真っ白になり 「えらいところへ来たなあ」 と後悔の念がよぎったことなど、 落ち着いて話せたのは50歳を超えてからと振り返る。
 同刑務所の教誨師として最年長となった福田さん。可能な限り、受刑者らが懺悔(さんげ)の心や希望を抱く教誨を続けるという。 平成9年の秋の藍綬褒章に続く受章。


瑞単・井本 武俊さん
40年苦労いとわず
 電気関係の仕事をする傍ら、 約40年前に松江地区の消防分団へ。 平成5年ごろから12年間分団長、 定年までの6年間は市消防団本部で副団長を務めた。

 当時は地域で火災が発生すれば、 夜中でも現場に駆け付ける生活は、 「自分にとってはごく当たり前で、 日常茶飯事だった」 と振り返る。 「絶対に団員にけがさせたらあかん」 という使命感があり、 「しんどいとか、 嫌とは思ったことない」 と苦労をいとわなかった。

 ある時、 同市木ノ本の県警察学校周辺で山火事が発生。 山には水がなく、 たたき消したりもみ消したりするなど対応するも消えない。 団地に住む人の非難を浴びながら生活用水を使うなど、 消火活動は約3日間にも及び、 記憶に残る出来事の一つになった。

 普段から自治会などの役員も務め、 地元住民に親しまれている井本さん。 「40年は長いようで短かった。 まだまだ忙しい」 と地域のために貢献し続けている。


旭双・井本 剛さん

地場産業発展に尽力
 約45年間にわたり、 漆器製造と地場産業の発展に力を注いだ。 「大変うれしく感謝している。 この受章は一人だけのものじゃない。 組合員全員のおかげです」 と語る。

 家業を継ぎ、 地元の漆器職人から約8年間技術を学んだ後、 26歳で独立。 漆塗りの技術をさらに磨くとともに、 ものづくりの喜びと楽しさに触れてきた。

 35歳で彫刻と漆塗りの技術を融合させた技法 「鎌倉彫」 に出合った。下地の色が磨き上げにより柔らかく浮かび上がるなど、 漆器の美しさと温もりに魅了され、 制作に没頭した。 「盆付菓子器・鎌倉彫柿」 などこれまで約40種を手掛け、 季節に合った色彩にしたり、 菊や柿を彫るなど工夫してきた。

 同組合の理事長を務めた4年間、 現代の漆器離れを何とか食い止めようと、 カタログを持って県内全市町村を回り、 地場産業のPRに尽くした。「後継者不足も心配です。 組合員には産地の発展のためにも頑張ってほしい」 と語った。


瑞双・千田 雅規さん

地域に根付いた運営

 大学卒業後の昭和38年、 22歳で採用され、 退職する64歳までの42年間、 まちの郵便屋さんとして地域に貢献しきた。

 紀北筋の特定郵便局長でつくる 「紀北連絡会」 で活動し、 53歳の時から理事や副会長を務めた。 各郵便局からの人事要望などを取りまとめ、 人事権がある上局 (近畿郵政局) に伝達する重要な事務などを請け負った。 「小さな郵便局はチームワークが大切。 うまく業務が回るように、 その局に合う職員を配置することには頭を悩ませた」 と振り返る。

 生家は明治から代々続く郵便局。 昭和52年、 36歳の時に父の死を受け、打田郵便局の5代目局長に就任。 地域の信頼を得て運営してきた。 「地方の郵便局長は不転勤。 住民とも顔なじみだから、野菜を持ってきれくれる農家の人もいたりとうれしかったね」 とにっこり。

 郵便局の将来については 「再編など厳しい現状ではあるが、 地域に根付いた運営で頑張ってほしい」とエールを送る。