真田探訪⑥ 天王寺区「安居神社」
前号では、大坂夏の陣における最後の決戦「天王寺・岡山の戦い」の激戦地で、徳川家の家臣である本多忠朝と墓がある一心寺について取り上げた。引き続き、夏の陣・天王寺口の戦いを紹介したい。
徳川方の先鋒として豊臣方の毛利勢と衝突した本多忠朝であったが、毛利勢の勢いは激しく本多勢は壊滅。本多勢の救援に駆けつけた小笠原勢であったが毛利勢に崩され、続く徳川方の二番手、榊原・仙石・諏訪の軍勢も同様に混乱。退却してきた二番手の兵と先へ進もうとする三番手の兵が入り乱れたことで家康の本陣は無防備となった。
その頃幸村は兵を複数に分け、天王寺口で松平勢と戦うも松平勢は真田勢を抜き大阪城へ進行。一方、真田勢は家康の本陣へと進み、当時の和歌山藩主である浅野長晟(ながあきら)が豊臣方へ寝返ったと流布したことで徳川方を動揺させ、3度にわたり本陣へ突撃を繰り返した。
家康本陣は大混乱となり、家康は騎馬で陣を後にし避難。家康は切腹を覚悟しながら逃げたとされ、あと少しで豊臣方に討ち取られるところであったという。
その後体制を立て直し数に勝る徳川方は豊臣方の軍勢を側面から襲い次第に追い詰めていく。幸村も自ら家康の首を狙い戦うも、陣へ退却することとなり一心寺近くの「安居神社」の境内で馬を下り休息。その際、松平勢の兵(鉄砲組頭の西尾宗次)が休息する幸村を見つけ、幸村は境内の木の下で最期を迎えた。「この首を手柄にされよ」と最後の言葉を残したという。享年49歳。慶長20年5月7日のことであった。
安居神社では幸村が腰を下ろしていた松の木を「さなだ松」とし、幸村戦死の地を伝える石碑なども建てられている。安居神社は国道25号を挟み一心寺の真向いに位置する。
(次田尚弘/大阪市)