家康紀行⑪浜松城に根差す「鎧掛松」

前号では家康による浜松城築城の歴史と背景を取り上げた。今週は浜松城の程近くにある「家康公鎧掛松(よろいかけまつ)」を紹介したい。

家康公鎧掛松は元亀3年(1572)「三方ヶ原の合戦」で敗退を期した家康が命からがら浜松城へ戻り、解いた鎧を掛け一息ついたと伝わる松の大木。

もとは浜松城内の堀のそばにあったとされ、現在の松は三代目。初代は大正4年(1915)に台風で枝が折れたことで松枯れを起こし、二代目として植えられた松は空襲により焼失。三代目は城近くの住民らにより植樹されたもの。

当時の鎧掛松の近くには清水が湧いており、合戦で疲れた馬の体を冷やしたことから「馬冷(うまびやし)」といわれ、城の南東部に地名として残っている。敵方に追われようやく城内にたどり着いた家康と、荒い息遣いの馬の姿が目に浮かぶ。

三方ヶ原の合戦は家康の人生観を変えるほど心理的な苦痛を強いられた戦いとされ、城へ逃げ帰り憔悴(しょうすい)した自らの姿を絵に描かせ、この合戦での敗北を慢心の自戒として生涯座右を離さなかったという、通称「しかみ像」(徳川美術館所蔵、三方ヶ原戦没画像)をご覧になられたことがある方もおられるだろう。

そもそも、三方ヶ原の合戦は浜松市北区の三方ヶ原付近で起きた武田信玄と家康による戦い。合戦前、二俣城(浜松市天竜区)を武田軍に落とされた家康は、織田信長からの援軍と共に浜松城に籠城。浜松城が次なる標的であると考えた家康であったが、城を横目に西へと向かう武田軍に焦りを感じ出陣を決意。武田軍の戦略にはまり、徳川と織田の連合軍はわずか2時間で敗退を期すこととなり、ここから浜松城への帰還を目指す家康の苦闘が始まる。

「家康公鎧掛松」(左奥に浜松城を望む)

「家康公鎧掛松」(左奥に浜松城を望む)

(次田尚弘/浜松市)