家康紀行⑫「三方ヶ原の合戦」の軌跡
前号では、三方ヶ原の合戦で敗退を期した家康が命からがら浜松城へ戻り、解いた鎧を掛け一息ついたと伝わる鎧掛松と合戦の概要を取り上げた。今週から合戦の軌跡を紹介したい。
合戦の発端については前号で紹介の通りであるが、元亀3年(1572)12月22日の午後4時ごろ、武田信玄が率いる2万5000の軍勢と、家臣の反対を押し切り武田軍の策略にはまった徳川家康率いる1万1000の軍勢(徳川軍8000、織田の援軍3000)が、現在の浜松市北区の三方ヶ原台地で衝突。
ピラミッド型に兵を配置し大将を背後に据える「魚鱗(ぎょりん)」という武田軍の陣形に対し、前方へ兵を張り出すV字型で大将を中心に据え敵を囲い込む「鶴翼(かくよく)」という陣形で戦いを挑んだ徳川軍であったが、敵の勢力と戦法の誤りにより2時間余りで総崩れとなり浜松城へ退却することとなった。時は真冬の夕刻で、浜松では珍しい雪が降っていたという。
この合戦で家康の家臣の多くが命を落としている。先に武田軍により攻められ、開城を余儀なくされた二俣城主の中根氏や青木氏は屈辱を果たそうと奮闘するもかなわず。味方の敗戦が濃厚であることを浜松城の櫓から確認し、戦場へ赴き家康に早期退却を進言するも受け入れられず、家康を逃がすため自ら武田軍へ突撃し身代わりとなり討ち死にした夏目氏など、大きな痛手となった。
現在、合戦跡には「古戦場」と記された石碑が建てられ「家康公ゆかりの地」として紹介されている。戦場から浜松城までの距離は直線で約10㌔。武田軍の追手が迫る中、城へたどり着くことは容易ではなかった。家康の足取りを追うと、さまざまな言い伝えやそれに由来する地名が見えてきた。
(次田尚弘/浜松市)