人と人を結ぶ地域紙 四方八洲男氏が寄稿

全国の地域新聞社が一堂に会する「第15回全国地域紙交流会in綾部」が17、18の両日、京都府綾部市で開かれ、本紙など39社の代表や地域紙の研究者らが集まり、事例発表や講演などを通して、地域紙の今後について議論した。全国の地域紙を取材したジャーナリスト、故・四方洋氏の弟で、初日に講師を務めた元綾部市長の四方八洲男氏の寄稿「人と人を結ぶ地域紙」を掲載する。

早いもので、亡くなってから1年以上になる。

兄・洋は、毎日新聞在籍中から死ぬまで地域紙(郷土紙)に関心を持ち続け、約70に及ぶ地域紙を取材し、一昨年には清水弘文堂書房から『新聞のある町』を出版した。これが最後の出版となった。

その兄がよく話していた。「ど根性という言葉があるが、地域紙の社長はもちろん、記者にも面白い人がたくさんいる。地酒と似て個性が抜群だ」と。

兄たちにもそうだったが、私が綾高(京都府立綾部高校)を出て綾部から離れていた20年間、おふくろは月3回の「新生時報」をずっと送り続けてくれていた。

裏表2㌻のタブロイド判だったが、文字通り隅から隅まで目を通したものだった。そんなことで、38歳の時、突然綾部へUターン、市議に立候補した時も違和感はなかった。地域紙はふるさとそのものだった。

だから昨年、あやべ市民新聞の高崎忍社長から「全国の地域紙交流会を綾部でやることにした」という話を聞いて、まさに「我が意を得たり!」。その日を楽しみにしていた。

当日、北は北海道「あさひかわ新聞」から南は沖縄「宮古毎日新聞」「八重山毎日新聞」まで39社、70人が一堂に会した。日本地域紙協議会の新保力会長(松本市・市民タイムス)も15回を通じて最高の参加者だと喜んでおられた。名刺交換をしながらまず感じたのは、皆さん腰がずいぶん低いことだった。兄が取材で伺った社長さんだろう。飛びつくように手を握ってくれる人も多かった。

その中に、あの東日本大震災の時も車のバッテリーを外して、翌日にA4判200部の新聞を作り、避難所に貼って回った気仙沼・三陸新報の浅倉眞理代表取締役の柔和な笑顔もあった。流された「みちびき地蔵」のお堂の再建の相談を受けたあやべ市民新聞社が、制作を仲介するだけでなく、綾部市民からの寄付(250万円)をもってかけつけたあの三陸新報だ。

「洋さんには、じっくり話を聞いていただいて『新聞のある町』の最初にとりあげていただいた。あやべ市民新聞の高崎さんには本当にお世話になった」。浅倉社長の目には光るものがあった。

そんな大家族のようなぬくもりのある交流会だったが、全国の地域紙から寄せられたアンケートでは、半分以上が「経営は厳しい」ということだった。

世はすべてがインターネットで済ませることができるようになり、いわゆる「紙離れ」が進み、全国紙(朝日、毎日、読売など)や県紙(京都新聞や神戸新聞など)と共に地域紙の経営も決して楽ではない。個人情報保護ということで隣のことにも目をつむり、自治会のような地域のコミュニティーにも関心を持たない、そんな風潮があることも事実である。だからこそ、地域紙は今必要なのだ。

日本電産のコマーシャルではないが、「もしも地域紙がなかったら」ということに頭を巡らせてみよう。手作りのイベント、同窓会の様子や俳句の発表、絵画展のお知らせから、行方不明になった猫や犬を探してといったことまで、そんな身近な情報を伝えてくれる地域紙がなかったら、きっと乾いた町になってしまうだろう。同時に、地域を大きく変革する役割が地域紙にあることも論を待たない。

そういう使命を持った地域紙に直接携わる人々には「自分たちは地域の人と人を結んでいるんだ」「自由と民主主義、そして人権を守っているんだ」という強い自負を持ち、常に人々に寄り添う姿勢を貫いてほしいものだ。そうすれば、必ず地域紙は残る。兄・洋は『新聞のある町』のあとがきでこう記している。

「地域新聞のある町のイメージは外に開かれて透明感が高いといえる。共同体としての結びつきも強く、文化度が高いと感ずるのも筆者の偏見ではないと思う。……筆者は地域紙の未来を信じる。大きなメディアに比べてもネットに比べても独自の情報を扱っているからだ。……地方創生がいわれている。地域紙よおこれ。戦後第三の開花期が近づいていると信じたい」

元綾部市長の四方八洲男氏

元綾部市長の四方八洲男氏