家康紀行(25)東海道三大関所「気賀」

前号では井伊氏発祥の地で、菩提寺がある浜松市北区井伊谷の龍潭寺(りょうたんじ)を取り上げた。今週は気賀駅の程近くにある「気賀関所」を紹介したい。
そもそも関所は家康の命により主要な街道の軍事・警備を目的に設置されたもの。とりわけ気賀は東海道に沿った要所で、箱根、新居(浜松市)と共に東海道三大関所と呼ばれていた。
「入り鉄砲に出女」と言われたように、関所は人や物が移動する際、江戸へ鉄砲などの武器が必要以上に運ばれることがないよう、また、人質として江戸に住む各大名の妻子が江戸から逃げないよう通行する人々を取り調べる機関として重要な役割をなしてきた。
この付近を通る幹線道路は現在でも「姫街道」と呼ばれている。東海道は、浜名湖の南端を船で渡るルートが正式であるが、湖と海の境に位置することから危険を伴ったという。
そのため、浜名湖岸を大回りすることになるが、武家の妻子(奥方や姫君)などはより安全な気賀関所を通るルートが重宝されたことが「姫街道」の名の由来とされる。
関所開設より明治維新まで12代にわたり関所の管理を行った近藤氏は、江戸幕府の旗本として活躍。もとは今川氏に従う国人であったが、元禄11年(1568)の家康による遠江侵略を機に家康に仕え、近藤秀用(ひでもち)は井伊直政の与力となった。
秀用の孫にあたる貞用(1606―1696)は、家康から頼宣に仕えるよう指示を受け、大坂冬の陣では頼宣が率いる部隊に属し功績をあげ、頼宣の紀州藩への転封に伴い自らも紀州に赴き、祖父の秀用に呼び戻されるまでの約1年間、紀州徳川家の立ち上げに尽力したとされる。

(次田尚弘/浜松市)