家康紀行(56)牧之原の茶畑
前号では、版籍奉還により職が解かれた徳川の元幕臣らが剣を捨てて鍬をとり、牧之原台地を開墾し国内最大級の茶の産地の礎を築いた、徳川武士の挑戦を取り上げた。今週は、これを指揮し初志貫徹で茶畑の開墾に取り組んだ中條景昭に協力した勝海舟(かつかいしゅう)を紹介したい。
中條らが開墾を行った牧之原台地の金谷(かなや)原は官有地。百数十年もの間、不毛の地とされ誰もが手をつけず、幕府の直領として放置されていた土地であったため、当時、新政府の要職に就いた勝海舟をはじめ静岡藩の幹部らに開墾許可の申し入れを行ったという。勝海舟の後日談として当時の中條の強い意気込みを感じ許可へ至ったとされる。
勝海舟は文政6年(1823)江戸の生まれ。幕末の三舟(勝海舟、山岡鉄舟、高橋泥舟)の一人とされ、徳川慶喜から託された戦後処理に尽力。単身で西郷隆盛と交渉を行い江戸城の無血開城へと導いた人物である。幕府内では、ペリーの黒船来航時に提出した海防意見書が的確で老中の阿部正弘に認められ、薩摩藩主の島津斉彬からの知遇を得て、海防を中心とした政治の立役者となる。
文久3年(1863)軍艦奉行を務めていた勝は、紀州藩の海岸防衛を命じられ和歌山を訪れている。沿岸部に砲台を築くなど紀州の海防に尽力したとされる。その際、南海和歌山市駅から南東約300㍍に位置する和歌山市舟大工町に仮住まいし任務に当たり、ここに勝を師事していた坂本竜馬も訪れたという。
仮住まいしたとされる住居は現存しないが「勝海舟寓居地」の石碑が建てられ、紀州の海防を指南した要所として、当時の時代背景や勝の活躍を現代に伝えている。
(次田尚弘/島田市)