家康紀行(58)「木造天守閣」復元へ

前号より、御三家・尾張徳川家の居城「名古屋城」の歴史を取り上げている。引き続き、天守閣や本丸御殿の歴史と現代の取り組みを紹介したい。
慶長14年(1609)11月、名古屋城の築城を発令し、翌年1月に城の建築が始まった。普請助役に任命された西国大名20人には、初代和歌山藩主の浅野幸長(浅野氏15代当主)も含まれ、石に刻印を打ち工事を分担。延べ558万人が携わりわずか1年足らずで石垣を完成させたという。
元和2年(1616)、徳川義直が清州から名古屋城へ移り、同時に家臣や町人、寺社までもが移住。名古屋の都市を形成する「清州越し」として知られる。
天守は大天守と小天守を土橋でつないだ連結式層塔型と呼ばれる形式で、5層5階、地下1階建て。高さは55・6㍍。屋根上には、金のしゃちほことして有名な「金鯱」がのせられた。これは金の板を張り合わせたもので徳川家の威光を表すためとされる。
本丸御殿は藩主が居住していたが元和6年(1620)より上洛する将軍専用となり藩主は二之丸御殿に居住。徳川秀忠、家光、家茂が宿泊したという。
時は流れ明治3年(1870)、明治維新に伴い徳川慶勝(尾張藩14代藩主)から新政府に対し城を破却し、金鯱(しゃち)を鋳潰して武士への手当や城跡の整備に充当しようと申し出たが、ドイツの公使や陸軍の訴えにより城郭の保存が決まった。しかし、1945年の名古屋大空襲で奇しくも焼失。現在の天守は59年に再建された。
再建された天守は耐震性能の問題から、木造への建て替えを決定。市長選では木造復元が争点になった。現在の天守は5月7日から入場禁止となり、木造天守の竣工は2022年の予定。名古屋市のシンボルは今、生まれ変わろうとしている。
(次田尚弘/名古屋市)