家康紀行(66)尾張藩7代藩主・宗春の生涯

 前号に続き、時の将軍、徳川吉宗から偏諱(へんき)を授かった、尾張藩7代藩主・徳川宗春の奇策と生涯を紹介したい。
 享保の改革で質素倹約を進める吉宗に対し、規制緩和で民を自由にしようと城下に遊興施設を設け地域経済の振興に貢献した宗春であったが、行き過ぎた政策に目を付けられ、天文4年(1739)幕府から隠居謹慎の命を受けてしまう。
 隠居謹慎後の宗春は、名古屋城三の丸の屋敷で余生を過ごすことになる。外出は墓参りですら許されないものであったという。宗春を謹慎へと追い込んだ幕府であるが、実際は老中の松平乗邑が主導したもので、謹慎中に吉宗からの使者が送られ、不足するものはないか、気鬱(きうつ)になっていないかと気遣いがあったとされる。吉宗が死去した後は下屋敷へと移り、尾張徳川家の菩提寺や祈願所への参拝が許された。
 宗春が尾張藩主の頃、吉宗から朝鮮人参を拝領しており、謹慎後も屋敷で栽培を続けた。尾張藩9代藩主の宗睦は、宗春が作った薬草園を生かし医学の振興を図り、後にその行動が名古屋における医学の発展に大きく貢献したとされる。政策では正反対の吉宗と宗春であったが、かつてからの親交や互いの信頼が途絶えることはなく、世を良くしようという思いは生涯通じ合うものであったのかもしれない。
 宗春が死去したのは明和元年(1764)のこと。それから75年の時を経た天保10年(1839)、尾張藩12代藩主・斉荘(なりたか)が就任する際、宗春に「従二位権大納言」が贈られ、歴代藩主に名を連ねるまで名誉を回復。14代藩主・慶勝(よしかつ)は薬草園跡地で宗春の菩提を弔うなど、尾張発展の立役者として名古屋の人々に受け継がれることになった。
(次田尚弘/名古屋市)