家康紀行(67)地域が育む食文化「名古屋めし」
前号では、政策で対立するも吉宗との親交があった、尾張藩7代藩主・宗春の生涯を取り上げた。尾張発展の立役者である宗春の精神は、今なお、名古屋の人々に受け継がれている。先に取り上げた「金シャチ横丁」では、名古屋で生まれ親しまれている「名古屋めし」と新しい食文化を発信する試みが行われている。今週は、名古屋めしの歴史を紹介したい。
名古屋めしとは、主に名古屋市を中心とした中京圏で提供される名物料理の数々を指す造語。一般的な料理に地域特有のアレンジを加えたもので、味付けが濃厚であることや、強いインパクトを持っていることで知られる。
名古屋は古くから養鶏が盛んであったことから、名古屋コーチンを用いた日本料理が代表的であったとされる。しかし、戦災の混乱でその食文化は衰退し、一方で屋台街が栄えるようになる。そこで、岡崎市を中心に製造され中京圏で親しまれる「豆味噌(八丁味噌などの赤みそ)」をベースとした料理が生まれ、地域に浸透していった。
数十年の時を経た2000年ごろ。名古屋市の外食チェーン店が東京進出し、名古屋の料理を提供。御当地料理に「名古屋めし」と名付けたことがその名の始まりという。
その後、手羽先の唐揚げの有名店など、名古屋の企業が東京へ進出する際に「名古屋めし」とうたい、首都圏でその名が広がった。2005年に愛知県内で開催された国際博覧会「愛・地球博」で名古屋が注目されたことも後押しし、その名が全国的に知られるようになった。
代表例は、名古屋コーチンなどの鶏料理、手羽先の唐揚げ、味噌カツや味噌煮込みうどん、きしめん、ひつまぶし、エビフライ、小倉トーストなどさまざま。そこには地域が育んだ食文化の数々が隠されている。
(次田尚弘/名古屋市)