西条藩を知る(14)新幹線建設、島氏の信念

 前号に続き、十河氏と二人三脚で新幹線開業へと導いた、島秀雄氏の功績を紹介したい。
 昭和31年5月、父の遺志を継ぐ形で会長に就任した「東海道線増強調査会」は、従来の東海道線とは別線とし、在来線よりも線路幅が広い「広軌」を採用する方針を固め、答申を運輸大臣へ提出。昭和34年国会承認を受けることとなる。
 いざ、新幹線の建設が始まるも高額な予算問題は残り、十河氏による政治的な駆け引きで、東京五輪までの開業を約束に世界銀行から当時の8000万ドルの借款を受け入れが決まる。総裁就任時、十河氏は、政治と予算は任せておけと島氏に伝えていたといい、東京五輪を直前にした昭和39年、島氏の信念といえる安全性・信頼性の高い新幹線が開業を迎える。
 しかし、新幹線開業の前年、十河氏は増大した建設コストが国鉄の財政に影響を与えたとして勇退。島氏も後を追って国鉄を退職したため、十河氏、島氏共に、新幹線の出発式には参加していない。
 国鉄退職後の島氏は、昭和44年、宇宙開発事業団(現在のJAXA)の初代理事長に就任。鉄道以外の分野であったが、安全性・信頼性を重視し、必ずしも最先端の技術を求めないという鉄道車両づくりの信念は、ロケットや人工衛星の開発にも受け継がれた。
 人工衛星の名前として、例えば気象衛星であれば「ひまわり」、衛星放送用の通信衛星であれば「ゆり」のように、植物の名前が使われているのをご存じだろうか。これは、園芸好きの島氏の発案であるといわれ、ユーモアあふれる島氏のアイデアと、設計に携わった物への愛着が感じられる。
 同年、東海道新幹線建設の文化功労者として顕彰され、平成6年には文化勲章を受章。平成10年、96歳で生涯を閉じた。(次田尚弘/西条市)