水軒堤防が国史跡に 文化審議会答申
国の文化審議会は、江戸時代後期に防潮・防波堤として築かれた和歌山市西浜の「水軒堤防」を国史跡に指定するよう、文部科学大臣に答申した。近世の土木技術や防災の在り方を理解する上で重要であると評価された。これにより、和歌山県内の国史跡は27件(特別史跡を含む)となる。また、和歌山城の南西に位置する「扇の芝」(同市雑賀屋町東ノ丁)の一部を国史跡「和歌山城」に追加指定することも答申された。
水軒堤防は紀の川河口部南岸に築かれ、約2・6㌔㍍。今回はそのうち1・5㌔が指定される見込み。
石堤と土堤からなる中堤防と南側に取り付く土堤、北側の自然堤防で構成。石堤は海側を和泉砂岩を加工した石を隙間なく並べ、目地が横に続く「切込接(きりこみはぎ)布積み」という技法で構築。陸側は結晶片岩と砂岩を帯状に積み上げ、精巧で堅固な堤防が築かれている。
堤防の構造について詳細に記された資料はほとんどないが、18世紀の『大畑才蔵日記』、19世紀の『紀伊続風土記』などで堤防の存在がうかがえる。中堤防は発掘調査で高さ3・7~4・4㍍、幅27㍍以上であることが判明している。
今回は史資料の記録や発掘調査で構造と時期が判明していること、近世の土木技術や防災の有様を理解する上で貴重であると評価された。
扇の芝は昨年10月に続いて2回目の追加指定で、1338・78平方㍍が追加される見通しとなった。和歌山城南西部に位置し、江戸時代には芝地だった。城の北西から南西にかけて堀がないことから、城外の見通しを良くして敵の動きを察知するための空閑地として設けられたと考えられている。1846年の落雷で焼失した天守を再建する際には作業場の「御普請所」として利用された。和歌山城との一体性が強い空間として紀州徳川家に維持管理されてきた。