水戸藩主・徳川頼房の歴史
前号では、水戸城の成り立ちから、魅力向上を目的に現在進められている復元・整備事業を取り上げた。
水戸徳川家の居城として発展を遂げたのは初代藩主・徳川頼房の時代から。今週は頼房の歴史を紹介したい。
徳川頼房(1603―1661)は家康の11男で伏見城の生まれ。紀州徳川家の祖である頼宣の弟にあたる。3歳にして常陸下妻城10万石、6歳にして水戸城25万石を領するも幼少であることから、家康の許で育てられたという。紀州藩の歴史書として知られる「南紀徳川史」によると、33歳で徳川姓を名乗るようになり、それまでは頼宣の分家とみなされていたといわれる。
家康の死後、17歳で初めて水戸に就藩するも2カ月で江戸に戻る。その後、寛永2年(1625)から7年(1630)までは毎年水戸に就藩し、水戸城の修復や城下町の造営など城下の整備を行った。
2代将軍・秀忠が死去し、3代将軍・家光の時代となると江戸へ戻り水戸への就藩はわずかとなった。頼房と家光は1歳違いで、学友のような仲であったとされ、謀反の疑いがあった尾張藩主の義直や紀州藩主の頼宜と溝があった家光として、頼房は頼りになる存在。水戸藩主でありながら江戸の常駐を認めたことから、俗に水戸藩主を「副将軍」と称されることになったという。それが故に、水戸藩は参勤交代を行わず、江戸の将軍に仕える「定府」になったとされる。
頼房は寛文元年(1661)、水戸就藩中に城内で死去。以後は頼房の三男である光圀(みつくに)が、水戸藩2代藩主として藩政を継ぐこととなる。
(次田尚弘/水戸市)