阪神・淡路大震災から25年 現地活動の思い
1995年1月17日午前5時46分、阪神・淡路大震災が発生。マグニチュード7・3、最大震度7の地震は災害関連死を含め6434人が死亡し、約64万棟の住宅が被害を受けた。ことしは震災から25年。当時のことを知らない世代が増える中、九度山町議で西山教育心理研究所代表の西山隆さん、和歌山県警本部警備部機動隊長の得津卓志さんが当時を振り返った。
西山さんは当時宝塚市に在住。激しい揺れはベッドが跳ねるような感覚で、部屋の壁が飛ばされて外が見えたという。
揺れが収まってから懐中電灯とラジオを手に、姉と共に近くの小学校へ避難。数分の道のりでは血まみれの人が歩いていた。夜が明け自宅に戻った西山さんは車に乗り和歌山へ。高速道路から見えた神戸市の空は「気持ち悪いくらい赤黒かった」と振り返る。
その日の深夜に和歌山に到着し、車に支援物資を積んで翌朝出発。いろいろな街を走った。それから2カ月ほど、毎日和歌山と兵庫を往復して物資を届け、不足しているものを調べて回った。和歌山で食材を大量に購入し、「ボランティアに行く」と言うと「じゃあ全部持って行って!」と言う人もいた。
家が全壊した友人に会うと、「ああ、良かった」と無事を喜んだ一方、遺体安置所に探しに行った時には多くの遺体を見るのがとてもつらかったという。
得津さんは当時機動隊の小隊長。17日は和歌山市内の官舎におり、地震の揺れで飛び起きたという。被害があるだろうと急いで出勤し、テレビで被害の大きさを知った。
18日に20人ほどで被災地へ出動。高速道路で兵庫へ移動し、倒壊した阪神高速の橋脚のそばを走り、神戸市須磨区へと向かった。建物がことごとく潰れ、焼き尽くされた街にとにかく驚くばかりだった。
現地では、要救助者がいないかを捜索。救助活動はほぼ終わっていたため要救助者はおらず、ライフラインが復旧した住宅のガス漏れや点きっぱなしのテレビなどを確認した。道中、「この辺りにおばあさんが寝ていたかもしれないので探してほしい」と声を掛けられ、住宅の焼け跡からおばあさんを探したが、骨の一本も見つからなかった。
その後、得津さんは4回ほど被災地へ。被害が少ない地域のパトロールに回り、工事車両などが通る緊急交通路の規制を行った。緊急車両の許可証をコピーして緊急交通路に入ろうとする車も現れたという。
巨大地震に備えて いま、できること
震災から25年。これまでにも新潟県中越地震や熊本地震、東日本大震災と大地震が発生している。和歌山でも近い将来、南海トラフなどの巨大地震が高い確率で起こるとされている。
西山さんは自分自身と家族を守り、さらに近隣の人と助け合う小さなコミュニティが必要と指摘。「子どもたちは遊びながらでも訓練したことが記憶に残る。少しずつ防災を意識し続けることが命を守るために必要」と話す。
阪神・淡路大震災の後、得津さんは新潟県中越地震、熊本地震の被災地でも活動し、多くの現場を見た。「今と昔で訓練のやり方も違う。地震によって被害状況も違うので、より被災地に近い状況の訓練をできたらと思う」と語った。