水戸東照宮と斉昭の政治

前号では、徳川斉昭(なりあき)が設計し現存する、日本最古の鉄製戦車とその時代背景を紹介した。今週は鉄製戦車が残る「水戸東照宮」と攘夷論や将軍継承問題で幕府との対立が深まる斉昭のその後を紹介したい。
水戸東照宮は水戸市中心部に位置する神社。市民からは「権現さん」と呼ばれ親しまれている。徳川家康を主祭神とし、水戸藩初代藩主の徳川頼房を配祀している。元和7年(1621)景勝地である霊松山に頼房が創建。和歌山市の紀州東照宮と同様、長い階段を上った先に社殿が設けられている。中央に東照大権現、左に山王権現、右に麻多羅神が祭られ、三社権現と呼ばれたという。
創建以来、祭事は仏式で行われていたが、天保14年(1844)寺社の整理を進める斉昭により神式に改められ、僧侶を罷免。東照大権現の左右で祭られていた二座を移した。同時に東照宮を寺社の整理対象としたことから幕府からの批判を浴びたという。社殿は大正6年に現在の重要文化財にあたる特別保護建造物に指定されたが、昭和20年に戦災で焼失。現在の社殿は昭和37年に再建された。
幕政に携わる斉昭は将軍継承問題の争いに敗れ、紀州藩13代藩主であった徳川家茂(いえもち)が将軍となる。井伊直弼が大老となり安政5年(1858)日米修好通商条約に調印。これらの出来事を巡り、江戸城へ無断で登城し井伊を詰問したことから謹慎を命じられるが、それに対抗した斉昭は、孝明天皇から水戸藩に幕政改革を指示する勅書「戊午の密勅(ぼごのみっちょく)」を受ける。それに激怒した井伊により水戸での蟄居を命じられ(安政の大獄)、斉昭は江戸を後にすることとなる。
(次田尚弘/水戸市)