扇の芝の一部 国史跡「和歌山城」に追加

国の文化審議会(佐藤信会長)は、和歌山市の国史跡「和歌山城」に、南西角に隣接する「扇の芝」の一部305・87平方㍍(同市雑賀屋町東ノ丁)を追加指定するよう文部科学大臣に答申した。2018年10月、19年10月、20年10月に続いて4回目の追加指定で、史跡指定区域の面積は計20万9867・24平方㍍となる。

市によると、扇の芝は江戸時代に二つの役割を果たしていた芝地。一つは軍事的役割で、城の北西から南西にかけては堀がなく、城外の見通しを確保し、敵の動きを察知するための空閑地(使っていない土地)を設けたと考えられる。

もう一つは、城のメンテナンスヤードとしての役割で、弘化3年(1846)に落雷により焼失した天守を再建する際、資材の仮置き場などとして利用された「御普請所(ごふしんじょ)」が置かれていた。

和歌山城と一体性が強い空閑地として紀州徳川家が維持管理していた場所であり、江戸時代の姿は『紀伊国名所図会(きいこくめいしょずえ)』に描かれ、伝えられている。

扇の芝は全体で約3000平方㍍あり、今回の追加指定により約2300平方㍍が史跡となる。市は一帯の用地を全て買い取り、史跡として復元整備する方針で、残り部分の住民やビル所有者らと協議を進める。

和歌山城は天正13年(1585)、羽柴(豊臣)秀吉が弟の秀長に命じて築城したのが始まり。関ヶ原の戦いで徳川家康に味方した浅野幸長(よしなが)が連立式天守を建築するなどし、元和5年(1619)には家康の十男・頼宣が城主となり、砂の丸、南の丸の造成など、御三家にふさわしい城郭へと整備された。1931年3月に国史跡に指定されている。

今回の追加指定により、県内の国指定史跡の件数30件に変わりはない。

 

江戸時代後期の扇の芝(『紀伊国名所図会』後編巻之一)(和歌山市提供)