先人の教えを生かす 11月5日「世界津波の日」
先人の教え次の世代へ
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11月5日は「世界津波の日」
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江戸末期の記録から学ぶ
11月5日は「世界津波の日」。167年前のこの日、濱口梧陵が津波から村人を救った「稲むらの火」の逸話で知られる安政南海地震が起こった。このときの津波の様子や教訓を記した文書が海南市日方の旧家に残る。先人の記録から学び、地域の防災教育に生かそうと再び注目されている。
江戸時代の末期1854年11月5日、マグニチュード8・4と推定される大きな地震が発生。「大津浪上り来り四、五度も満干これ有り、中にも三度目の高汐猛勢」、「老若男女共に泣き叫ぶ」と黒江村(現・海南市黒江)を襲った大津波から村人たちが逃げる様子を生々しく書いた1冊の史料がある。同村の漆器問屋5代目・岩手屋平兵衛の『高濤記(こうとうき)』だ。海南地域で起こった出来事を中心に、平兵衛の体験をもとに書いた。全34㌻、4600字余り。特に安政の大津波の記録は詳細で、当時船着場に近かった平兵衛宅は1㍍(3尺5寸)ほど浸水したが、老母や子どもなどは津波前に避難し、残った者も2階に逃れ無事だったことを書き残している。11代目当主柳川和一郎さんが1970年ごろ自宅の蔵から発見し、『海南市史研究』(1977年)や『海南市史』(90年)に活字の翻刻を載せた。
地元の被害分かりやすく 児童らの防災教育に活用
『高濤記』を研究する同市中央公民館の馬場一博館長(62)は元学校教員。2011年東日本大震災を機に、地域の歴史と災害を伝える貴重な史料として、防災教育に生かせないかと改めて注目。同年秋から同じく安政の津波について記した同市名高の商人・吉野屋宇兵衛の巻物「末世之記録大地震大津浪上り」と共に、小中学校や市民向けの講座などで取り上げてきた。
「亜墨利伽(あめりか)船四艘相見へ其船名蒸気船と号す」。『高濤記』の冒頭は1853年6月4日、ペリー来航から始まる。翌年9月、ロシア艦船が日方沖にやって来て大騒ぎになり、同じ年に地震と津波が村を襲う。江戸とも交流があった商人・平兵衛が見聞きしたことが正確に書かれ、馬場館長は「この時代に来た津波だ、と子どもたちも実感を持って学べる史料。地元の歴史も詳細で、教材としても使いやすい」と話し、「防災は人ごとではなく、いかに自分事として捉えるかが重要だ」と強調する。
被災地域として現在も残る地名が続々と出てくる。「名高、藤代大荒れ」「黒江、日方も同様」。現在は移築されたが、なじみある「湊橋」も被災したとして記録に残る。
同市は2025年度の完成を目指し、大野中に防災公園を計画。歴史と防災をつなぐ貴重な史料として『高濤記』を同公園敷地内の「(仮称)体験学習施設」で紹介したいと考えているという。
馬場館長は「海南は江戸以降埋め立てで発展してきた町。津波は怖いとただ教えるのではなく、この地域に住み続けていく上で先人が残した記録を有効に活用していければ」と話す。
『高濤記』にはこうも記されている。「何事も過去のことは忘れやすいので(中略)忘れないように、子どもや孫にずっと伝えて準備をするように」。災害は突然やって来る。地域に残る記録から学び、常に心構えをしておきたい。
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梧陵の思い引き継ぐ者 百世の安堵いつまでも
2015年12月国連総本会議で、日本をはじめとする142カ国が共同提案となり、11月5日を「世界津波の日」に制定。1854(安政元)年同日、広村(現・広川町)を襲った際、濱口梧陵(儀兵衛)が稲むらに火をつけ、多くの村人を避難させた逸話「稲むらの火」に由来し、この日が選ばれ、小さな村の出来事は世界に広がった。
同町には、濱口が先導し築堤に至った「広村堤防」が今も残る。2018年5月、同堤防を含む同町の防災遺産「百世の安堵」が日本遺産に認定。濱口の「築堤の工を起して住民百世の安堵を図る」から付けた。次世代への継承にも積極的だ。郷土の歴史を語り継いでもらおうと同年、町内の小学校高学年を対象に「梧陵語り部ジュニアクラブ」を結成。本年度は15人が参加する。史実を基に災害教育を学び、次世代へとつないでいく。