岩橋秀樹氏を偲び 障害児者父母の会座談会
岩橋秀樹氏を偲んで
~和歌山市障害児者父母の会の座談会~
和歌山市障害児者父母の会の会長として県内の障害者福祉の向上に尽力し、春に亡くなった岩橋秀樹さん(享年63)を偲ぶ会が9月20日、和歌山市内で開かれました。同会役員の皆さんが岩橋さんとの思い出を語り合い、その志を受け継いでいこうと思いを新たにしました。涙あり、笑いありの座談会を振り返ります。
優しい人柄、誰からも愛され
秋の色がほんの少し芽生え始めた中、台風14号の影響をものともせず、次々と故・岩橋氏を偲ぶ人たちが集まって来た。本年の春、4月13日にご逝去された岩橋秀樹氏。座談会の場に着席した人たちは、故人の「志」や「思い出」、さらには「エピソード」を語りたい、そして偲びたいという想いに包まれていた。まるで春愁秋思の如く―。その想いの現れだろうか、座卓の上座には何とも言えない笑みをたたえた遺影があった。
その遺影を囲むように、私たちは「故・岩橋秀樹氏の思い出」について語ることにした。まず初めに故・岩橋秀樹氏を弔うため、心より冥福を祈り黙祷を行った。そして和歌山市障害児者父母の会・会長の岩橋正悟氏の開会の挨拶の後、和歌山市障害児者父母の会・副会長の堀内正次氏が、想いの口火を切ったのである。
堀内正次氏「前会長は熱血漢で実にファイトに燃える方だったと思います。ある時、障害者の子供たちに対する熱意を私に語ってくれたことがありました。障害者一人に対して、職員も一人で対応する体制を築いていきたいと。ハードルは高いけれども、わたしはそういう希望をもってやっていきたいと強く述べておられました。このことだけでなく、障害者の子供たちを思う、本当に熱意溢れた方でした。わたしたちと辛苦を共にしてきたことを、思い出すと涙が溢れてきます」
次に、同じく和歌山市障害児者父母の会・副会長の藤井和美子氏が、過去を振り返りながら想いの丈を述べた。
藤井和美子氏「思い出として、岩橋正純会長が秀樹さんを厳しく育てたことです。よく耐えられたと思います。ある時、わたしが“どうしてあんなに厳しく育てるのよ”と尋ねたら、“アイツの人生は厳しい人生やから、厳しく育てて人間をつくっておかないと”と言うんです。将来のことを考えてのことでした。こういう愛情もあるんやなあと思いました。親から厳しく育てられた秀樹さんは、捻くれることもなく、純粋に育って、会長(正純氏)の愛情を理解してたんやと思いました。わたしは嬉しかったです。そして障害者の子供のことになると、いつも涙を流していました」
藤井和美子氏に引き続き、和歌山市障害児者父母の会・会計の東美那子氏が故人の思い出を語った。
東美那子氏「わたしも、いろんな思い出があります。でも半年前の、今年の4月1日のことを思い出します。この日、綜成苑の入所式がありました。その後、引き続いて、父母の会の会長が“会の歩み”について、入所生の親御さんに説明するんです。いままでは秀樹会長がされたんですが、今年は、当時部長だった正悟さんがされました。故・正純会長が詠まれた歌(この子らの先のためにと一筋に、思い迷わぬ父母の心)に値する堂々とした説明でした。終わって秀樹会長から、正悟の説明はどうでしたかと聞かれました。
わたしは感じた事をそのまま『秀樹会長の奥さんがこの場におられたら、これまでのご苦労がすっ飛ぶと思いました』と言ったんです。そしたら秀樹会長は涙し、わたしも涙を流したことを思い出します」
そして和歌山市障害児者父母の会・監事の山口冨美子氏が故人の思い出を述べた。
山口冨美子氏「秀樹会長は、いつも笑顔で接してくれました。しかも話をされる時も、いつも笑顔でされましたので、まず笑顔の会長を思い出します。4月8日に父母の会の監査があったんですが、その時はいつもの笑顔がなく、体調が悪いのかなあと思いました。それから5日後に亡くなられましたが、聞いた時は心臓が飛び出るほど驚きました。いまでも信じられない気持ちです。歌が凄く上手で、下見に行った時など、いつも最後には、『上を向いて歩こう』を歌ってくれました。みんなで盛り上がって、本当に楽しかったです」
そして続いて和歌山市障害児者父母の会・事務局長の長谷川邦枝氏が故人の思い出を語った。
長谷川邦枝氏「子供が小倉園にいるんですが、時々、会長(岩橋秀樹氏)と会うんです。そして理事長室で、いろんな話をさせていただきました。人生のことや子供のことを――。雨が降ったら滑るんで、滑り止めを早くしないといけないとか、いろいろと気配りをしていただきました。それから思い出として、親子の集いの下見に行った時、歌が好きで、坂本九さんの歌を楽しく歌っている姿が忘れられません。本当に子供の身になって考えてくれている、繊細な方でした」
そして和歌山市障害児者父母の会・顧問で、葬儀委員長を務められた和歌山県議会議員の山下直也氏が故人の思い出を語った。
山下直也氏「秀樹さんは、堀内さんの言ったとおり熱血漢でファイト溢れる人でした。今、この会場に入ってくると、そこに秀樹さんがにこやかな笑顔で(遺影)座ってくれていますが、お父さんの正純さんもまた豪快な人でした。そして秀樹さんは繊細で優しくて、人の心を大切にする人でした。いつも障害児者のこと、施設のことを考えている人でした。わたしも、よく子供たちの実情を教えていただきました。『直也さん、聞いてよ』と言われ、『父母の会の方々は親である自分たちの亡きあとの子供のことを思うと、死んでも死に切れない』との思いを持って日々生活されていることを話されていました。そういうことを聞いた時、わたしも辛かった。そんなことを秀樹さんは教えてくれました。また、台風時や大雨が降ったりすると、綜成苑、綜愛苑のことがいまでも心配になりますが、当時、県幹部に掛け合い、なんとか協力を得ることが出来た時など、秀樹さんがすごく喜んでくれました。また、ライブに出演して歌を歌ってもブルースを心で歌う人でした。よく河島英五さんの酒と泪と男と女を歌っていたことを今も思い出します。寂しいかぎりです」
さらに和歌山市障害児者父母の会・理事の二澤英雄氏が故人の思い出を述べた。
二澤英雄氏「私と秀樹会長との出会いは、35年前に遡りますが、海南保健所で一緒に仕事をした時からの付き合いで、その頃は、まだ足腰も健康で自宅から自転車で通勤されていました。11年前からつわぶき会で一緒に仕事をさせてもらっておりますが、時には激しく怒ることもありましたが、根はとても心が温かく、人に頼まれると断れない性格で、感情が込み上げてくると涙する場面もしばしばありました。もっと長く一緒に仕事がしたかったとの思いと一緒に仕事をさせていただいたことの感謝の気持ちで一杯です」
故人の長男である和歌山市障害児者父母の会・会長の岩橋正悟氏が、父である岩橋秀樹氏の思い出を語った。
岩橋正悟氏「息子として、思い出すことは、家に帰ってくると疲れていたのか、ぐったりとした父親のイメージが強いです。疲れていたら、いつもしんどい、しんどいと言っている父親でした。皆さんの前とは、違ったように思います。皆さんの前で、仕事をしているときは、真剣に向き合っている父親の姿がありました。わたしは、そういう父親を見ていて、切り替えて頑張ってるんやなあと思いました。――今年の2月頃から、少し変やなあと思いました。いつもやったら、怒るときに怒らないし……。実は心の中で、もしかしたら長くないのかなあと思いました。4月に入り入院して、もしかしたら戻ってこられないのかなあと一瞬思いました。入院して4日目は、早かったですが、いまでも生きているような気がします」
そして故人の次男である和歌山市障害児者父母の会・理事の岩橋健司氏が、父である岩橋秀樹氏の思い出を語った。
岩橋健司氏「感情の豊かな父親でした。わたしの子供らが生まれるときなど、分娩台の横にきて、看護師さんなどもびっくりしていました。嫁さんの真横まできて、何を言うのかと思ったら、“大丈夫かあ”と言うんです。わたしの母親から怒られていましたが、止めてもきかんかったと言っていました。あとで嫁さんに“どう思う”と聞いたら、“良かったよ”と言ってくれたのでほっとしました。本当に感情の豊かな父親だったなあと思います」
司会者が参加された方と同じように語ることは、マナーとして差し控えなければならないところですが、参加された方々のお許しを得て思い出を語らせていただきました。
司会者(髙田朋男)「わたしの心に残る思い出は、この本(『子を思う親の心を積み重ねて』)の第2章です。当初、これはわたしの執筆の参考にと、前会長が執筆してくれたものです。文章を読んでみると、何度も涙を流しました。他の方々からも涙したと言われました。前会長の人柄が凝縮しており、第2章として編集させていただき本当に良かったと思っています」
時間の過ぎるのを忘れるほど参加者の方々は、故・岩橋秀樹氏の人柄を偲び、その功績を讃え、いつまでも語り合った。
そしてやむなく閉会の時を迎え、和歌山市障害児者父母の会・理事の岩橋健司氏が締めくくりの挨拶を行った。
出 席 者
山下直也氏(和歌山市障害児父母の会顧問、和歌山県議会議員、自由民主党和歌山県連幹事長)
岩橋正悟氏(和歌山市障害児者父母の会会長)
堀内正次氏(和歌山市障害児者父母の会副会長)
藤井和美子氏(和歌山市障害児者父母の会副会長)
東美那子氏(和歌山市障害児者父母の会会計)
山口冨美子氏(和歌山市障害児者父母の会監事)
長谷川邦枝氏(和歌山市障害児者父母の会事務局長)
岩橋健司氏(和歌山市障害児者父母の会理事)
二澤英雄氏(和歌山市障害児者父母の会理事)
髙田朋男氏(作家・司会及び文責)