為光上人坐像など 和市指定文化財に5件
和歌山市は、葛城修験の二ノ宿ゆかりの地蔵菩薩立像、紀三井寺を開山した為光上人の坐像、天満神社の三十六歌仙扁額など5件を市指定文化財に新規指定した。今回の指定を含めて市指定文化財は86件となった。
【地蔵菩薩立像】西庄の西念寺観音堂本尊の脇侍(わきじ)。穏やかな顔立ちで、浅く整えられた衣紋の表現は平安時代後期(12世紀)の特色を示している。西念寺観音堂は、かつて葛城修験の二ノ宿にあった神福寺から移され、地蔵菩薩立像は、江戸時代後期の地誌『紀伊続風土記』に「本尊十一面観音、脇士八幡大菩薩、大威徳明王なり。三像共に役行者の作」と記された脇士八幡大菩薩に相当する。明治政府の修験道廃止政策により葛城修験と関係の深い寺院の多くが廃絶する中、西念寺観音堂は場所を変えて今日まで受け継がれ、神福寺のかつての姿を今に伝えている。
【為光上人坐像】紀三井寺を開山した為光上人の坐像。かつて開山堂に伝わり、現在は本堂後戸(うしろど)に安置される。紀三井寺の縁起や霊験譚は室町時代の紀三井寺の再興のための勧進の中で語られ、それに伴って為光上人に対する尊崇の念が高まる中、文明4年(1472)の開山堂建立時に造像されたと考えられている。やや老相の厳しい顔立ち、骨太な体で、筆と巻子を持つ姿は、国土安寧・仏法興隆を願って大般若経600巻を書写し、堂前に埋納したという縁起に基づくと考えられる。
【伝為光上人所持仏具】為光上人が所持したと伝えられる仏具で、錫杖頭(しゃくじょうとう)、五鈷杵(ごこしょ)、五鈷鈴(れい)からなる。錫杖頭は為光上人が龍女から授けられた七種の宝物のうちの一つとされ、青銅製で、正倉院宝物や日光男体山で出土した錫杖頭にも通じる古い様式をよく残している。五鈷杵は修行者が煩悩を打ち砕くための道具。金銅製で、中国・朝鮮からの請来系の系譜を強く引く、全体的に重量感のある作風。五鈷鈴は音によって内面を浄め、合図にも用いる密教の法具。青銅製で、鈴の部分に四天王などを浮き彫りにし、中国からもたらされた可能性が高い。
【紀三井寺勧進状】勧進状とは、寺社の再建にあたり寄付を募るため、由緒や霊験などを美辞麗句で記した宣伝文。「金剛寶寺塔婆建立勧進状」は、紀三井寺の「住侶某(じゅうりょなにがし)」が現在の多宝塔を再建するために文安6年(1449)に作成した。「金剛寶寺再建勧進状」は、戦国期の荒廃した本堂を再興するために、大永2年(1522)に作成された。西国三十三所の札所寺院には、同様の装飾が施された勧進帳と参詣曼荼羅がともに伝わっている事例が多く、南北朝時代から室町時代にかけて、荒廃した札所寺院の再建に勧進勢力が大きな役割を果たしていたことを示す資料として重要といえる。
【天満神社三十六歌仙扁額】徳川家入国前の紀伊を治めた大名、浅野幸長によって慶長11年(1606)に奉納され、和歌浦西の天満神社が所蔵する。いわゆる業兼様(なりかねよう)と呼ばれる大型の三十六歌仙扁額で、18面、各54・9㌢×42・6㌢。残存する歌仙の端整な表情と赤外線写真から画格の高さがうかがえ、寛文4年(1664)の『関南天満宮伝記』が記すように、狩野光信を主催とする作画として大過ないとみられ、色紙形の文字は「寛永の三筆」に数えられる公卿、近衛信尹(このえのぶただ)と考えられる。損傷は進んでいるが、奉納者・奉納年代、絵筆者を狩野派正系絵師と推測できる桃山時代から江戸時代初頭の歌仙絵扁額として希少といえる。