戦後80年、語り継ぐ記憶① 上原ハツさん

戦争体験者の高齢化が進む中、戦争の記憶を風化させず、その悲惨さを次の世代にどう伝えていくかは大きな課題。体験者に、当時の状況や平和への思いを聞いた(全5回)。
恐怖と飢えに苦しんで 和歌山市 上原ハツさん(92)
父が鷺ノ森で馬を使った運送業をしていた。空襲があった年、私は修徳女学校1年(今の中1)。4人の弟がいる。1945年7月9日の朝、兵庫県に住む叔母が「和歌山は住金があるから狙われている」と2人の弟を連れて行った。夜になり母が「胸騒ぎがする」と赤ちゃんだった弟を乳母車に乗せ、もう1人の弟の手を引き、4人で福島に借りていた小屋に向かった。
夜10時ごろ、北島橋を渡っている途中で空襲警報が鳴った。橋を渡り終え、堤防から向こう岸を見ると空は真っ赤。夜空が明るくなるほど、まち全体が燃え盛っていた。
対岸からお互いを呼び合う親子の声が聞こえてくる。体に火がついて焼けている人の姿が見えた。私たちをめがけて焼夷弾が落ちてきて、必死に走って隠れた。
3日ほどして家に帰ると辺りは焼け野原で何も残っていなかった。そこにバラックを建てて住んだ。空襲よりその後の生活の方が大変でつらかった。食べるものも着るものもなく、ないのが分かっているから、どんなに空腹でも食べたいと言えず、ずっと餓えていた。兵隊さんが突然家に土足で入って来たことがあり、ものすごく恐かったことも覚えている。
つら過ぎたあの日のことはもう思い出したくない。