戦後80年、語り継ぐ記憶② 数見宏子さん

戦争の被害を避けるため、大阪市東住吉区で暮らしていた私たちは、12歳の姉と7歳の弟と3人で、祖母がいる和歌山市吹上に疎開した。父はそごう百貨店の外商部で勤め、海外出張が多く、家にはほとんどいなかった。
大阪で戦火が厳しくなり「家族をほっとけない」と父は仕事を辞め、母と4歳の妹、2歳と0歳の弟を連れて和歌山に。布施屋に家を借り家族8人で暮らすようになった。
小学2年で3回も転校。クラスでは「疎開の子」と特殊な目で見られていじめられ、学校にはなじめなかった。
和歌山大空襲の半年ほど前、41歳だった父に召集令状が届き、再び父のいない生活に。
軍隊にいた叔父から「和歌山市内はここ数日でやられる」と聞き、吹上の祖母や親族を布施屋に呼び寄せた。
7月9日、夕ご飯を食べた後、空襲警報が鳴り「いよいよ来た」と、家族と近所の人10人以上が一緒になって近くの高積山に逃げた。
7歳の弟が竹の竿で雑草をかき分けて先導し、私が生後5カ月の弟をおぶり、姉が2歳の弟、母は4歳の妹の手を引き、無我夢中で走った。
山の下に着き、頂上を見上げると、白い布を振っている人がいる。「スパイがここに人がいるって合図してる」と誰かが言い出し、急いで橋の下に身を隠した。
幸い私たちの周りには被害はなかったが、翌日、和歌山市内から逃げてきた近所の大学生から「和歌山は全滅や」と聞きショックを受けた。
戦争での体験は怖く、ひもじく、つらいものだった。しかし一家団結し、助け合うことも学んだ。今も家族には戦争を乗り越えた深い絆がある。それを子ども、孫に継承していきたい。