戦後80年、語り継ぐ記憶③ 永廣兆子さん

道場町で油屋を営み、祖父母、両親、2人の弟と、家族7人で暮らしていた。

和歌山大空襲があった1945年は、空襲警報が出ると家に戻り、解除されたらまた学校に行くという繰り返しで、勉強はほとんどできなかった。

空襲に備え、汀丁の大きな防空壕に逃げる訓練を町内で何度もした。

7月9日、1度目の空襲警報が出て、家の防空壕に家族7人で避難した。辺りが急に騒がしくなり、出ると付近に火の手が迫っていた。汀丁に逃げようとすると、燃えている。「川に行け!」と父が叫んだ。

そのとき母は妊娠7カ月。5歳の弟を祖父がおぶり、私が6歳の弟の手を引き、久保丁の通りに出て内川に向かって走った。道は逃げる人や大八車でいっぱい。家が燃え、火の粉が飛び散り、前がよく見えない。気付くと家族とはぐれていた。心細かったが「私が弟を守らなければ」と手をしっかりと握り、2人で川に入った。首まで浸かり、人が逃げ惑う様子を見ていた。

数時間耐えていると、船が来て川の中にいる人を一人ずつ引き上げて助けてくれた。土手に上がり、ずぶぬれのまま必死で家族を探した。偶然祖父母を見つけることができ、両親とも無事に再会できた。

もし、家族と会えなかったらどうなっていただろうと考えると怖くなる。生きていることに感謝し、あの時の自分と同じ世代の子どもたちに戦争の残酷さを伝えていきたい。