東日本大震災の記憶つなぐ 写真家の照井さん
東日本大震災の発生から、3月11日でちょうど10年。和歌山県有田市の写真家、照井四郎さん(72)は、「記録することは写真家の使命」と震災後のまちの様子を記録し続けている。あの日から、ゆっくりと確実に復興へと向かう足取り、被災地の今を伝えるため、ことしも追悼の日を東北の地で迎える。
照井さんは、熊野の自然や人の暮らしの撮影をライフワークに活動。一方で、雲仙普賢岳の火砕流災害や阪神淡路大震災、東日本大震災、紀伊半島大水害、熊本地震の際には現地へ。今も継続して取材し、定点撮影などを行っている。
阪神淡路大震災では直後に現地に入ったが、東日本大震災後、被災地に入ることができたのは6月末。秋田出身の照井さんにとって東北は思い入れもある土地で、岩手、宮城の最南端まで車を走らせた。押し流されてひっくり返った家、ひしゃげた車、住宅地に乗り上げた船――。「百聞は一見にしかず。地震と津波の爪痕は想像を絶するものでした」
生活が止まったまちで静かにシャッターを切り続けた。広範囲にわたる地域の被災に「これまでと規模が違う。復興まで途方もない時間がかかる」と感じた。
滞在時間が限られた中での活動。「腰を据えて記録しなければ」。そんな思いが、その後何度も照井さんを被災地へと向かわせた。毎年季節ごとに被災地へ赴き、原発事故で帰還困難区域に置き去りにされた犬を救出するボランティア、仮設住宅で暮らす人たちなどを、少しずつ変わるまちの表情とともに写した。
撮影だけでなく、音声レコーダーを携え、現場の生の声も録音して残すのが照井さんのスタイル。出会った人のこともメモに記す。津波により、辺り一面何もなくなった畑で出会った男性は「仕方ねえべ。誰のせいでもねえ」と漏らし、ベテランの畳職人は「また一からやる」と前を向いた。
津波に流され、泥に漬かった多くの家族写真に「写真は生きる」と痛感した。カメラを向けるのがためらわれるような場面でも「なぜ撮るか」を自問自答してきたという。「写真はこの先も残るだろう、残してほしい、そんな願いもある」と話す。
明るい話題や希望もあった。大船渡での震災後初のサンマ漁の再開、三陸鉄道の全線開通、8年たって住宅を再建した夫婦。生まれ故郷に戻ってくるサケや、復興の象徴の一つ、祭りにもカメラを向けてきた。
あの日から、まちの風景は大きく変化。土地はかさ上げされ、住宅や商店は高台に移転した。一方で「テーマが増えてきた」とも。原発事故の影響で、解決できない問題を抱える福島では、汚染土が詰まった「フレコンバッグ」と呼ばれる袋が大量に積み上げられ、すぐそばに設置された太陽光パネルとのコントラストが目を引く。残された負の遺産と、自然エネルギーの未来への希望とが同居する光景に、矛盾や複雑な思いがある。
記憶を風化させない 日頃から防災識識を
また、震災直後、全国で共有した災害への意識は少しずつ薄れてきていることに危機感も。二度と同じ悲劇を繰り返さないために、継続して記録する責任を感じている。
南海トラフ巨大地震の発生が懸念される和歌山も、ひとごとではない。「自分が住む地域の海抜を知らない人も多い。災害を甘く見ず、備えを進めてほしい」と力を込める。
昨年、阪神淡路大震災の発生から25年となることから写真展の準備をしていたが、新型コロナの影響で中止に。今後、何らかのかたちで発表したいと考えている。
「知った責任として伝えなければ、僕が被災地に行く意味はない。薄れゆく記憶をつなぎ留めるため、記録し続けたい」。その信念が揺らぐことはない。